宮城晴美氏のコラム 集団自決の重要証言含む
上原 正稔 (9)
コラム『母の遺言―きり取られた“自決命令”』(上、中、下)の骨子をここに紹介しよう。重要な証言が含まれているので、かなり詳しく紹介することをお許し願いたい。
<その年、母は座間味島の「集団自決者」の名簿を取り出し、一人ひとりの屋号、亡くなった場所、使用した“武器”、遺体を収容したときの状況など、これから自分が話すことのすべてを記録するよう、娘の私に指示してきた。(中略)母は知りうる限りの情報を私に提供し、そして一冊のノートを託したのである。>
「“真実”を綴(つづ)ったノート」の小見出しで記事はこう続く。
<そしてわたしに託された一冊のノート。それは字数にして四百字詰め原稿用紙の約百枚に及ぶもので、母の戦争体験を日を追って詳しく綴ったものであった。母は『いづれ時機を見計らって発表しなさい』とノートを手渡したのである。
ただ、母はこれまでに座間味島における自分の戦争体験を、宮城初枝の実名で2度発表している。(中略)
ではなぜ、すでに発表した手記をあらためて書き直す必要があったのか、ということになるが、じつは、母にとっては“不本意”な内容がこれまでの手記に含まれていたからである。
「“不本意”な内容」、それこそが「集団自決」の隊長命令説の根拠となったものである。>
「自責の念にかられる」の小見出しの個所はこう綴る。
<とくに『悲劇の座間味島』に掲載された「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合し、玉砕すべし」と梅澤部隊長からの命令が出されたくだりが『沖縄県史10 沖縄戦記録』をはじめとして、多くの書籍や記録のなかで使われるようになり、その部分だけが切り取られ独り歩きをしだしたことに母の苦悩があった。(中略)
そしてもう一つの“不本意”な理由、それは、自分の証言で「梅澤部隊長」個人を、戦後、社会的に葬ってしまったという自責の念であった。これが最も大きい理由であったのかもしれない。
母はどうして座間味島の“集団自決”が隊長命令だと書かねばならなかったのか、その真相について私に語りだしたのは戦没者の三十三回忌(1977年)の年に(雑誌『青い海』の記者として)座間味島の取材に出かけたときのことである。>