天皇のために死ぬ、言葉に尽くし得ぬ情景
上原 正稔 (7)
3月28日小雨のち晴れ、夜小雨。夜間、敵情視察のため各地に散っていた部隊が夜明けとともに北山(にしやま)急造陣地に帰隊。道案内の防衛隊員は家族と共に手榴弾(しゅりゅうだん)で自決。このような自決が2、3件既に始まっていた。
ウァーラヌフールモーを埋め尽くした住民と防衛隊員は黙々と「その時」を待っていた。防衛隊員から手榴弾が手渡された。防衛隊員は自分の家族にまず手榴弾を渡し、その使用法を教えた。天皇陛下のために死ぬ。国のために死ぬのだ。誰も疑問はなかった。恐ろしい鬼畜は砲弾を雨あられと降らし、今にもやって来るのだ。
夕刻、古波蔵惟好村長が立ち上がり、宮城遥拝の儀式を始めた。北に向かって一礼し、「これから天皇陛下のため、御国のため、潔く死のう」と厳かに言った。「天皇陛下万歳!」と叫ぶと、皆、両手を挙げて三唱した。
村長は手本を見せようと、手榴弾のピンを外したが、爆発しない。見かねた真喜屋実意前村長が最初に手榴弾を爆発させ、吹き飛んだ。堰(せき)を切ったように住民はわれもわれもと手榴弾を爆発させた。だが、不発弾が多いのか、爆発しないものが多い。手榴弾が足りない。「本部から機関銃を借りて、皆を撃ち殺そう」と兵事主任の新城真順が村長に言った。村長は「よし、そうしよう。みんな、ついて来なさい」と先頭に立って300~400メートル南の急造本部壕(ごう)に向かった。住民はワァーと叫んで陣地になだれ込んだ。その時、アメリカ軍の迫撃砲が近くに落ち、住民はいよいよ大混乱に陥った。
赤松嘉次隊長が防衛隊員に命じて「武器はやれん、皆を戻せ」と言い、事態を何とか収めた。
住民はウァーラヌフールモー(第1玉砕場)と陣地東の谷間(第2玉砕場)に分かれ、戻っていった。「第2玉砕場」に向かった金城武徳は生き残った。そこでは既に「玉砕」は終わっていたからだ。
ウァーラヌフールモーに戻った住民はどうなったか。陣中日誌は記す。
「3月26日午後8時過ぎから敵弾激しく、住民の叫び声阿修羅の如(ごと)く陣地彼方(かなた)において自決し始めたる模様。(現場を確認したのは翌日)3月29日の豪雨。悪夢の如き様相が白日、眼前に晒(さら)された。昨夜より自決したるもの約2百名(阿波連方面においても百数十名自決、後判明)。(中略)戦いとは言え、言葉に著し尽くし得ない情景であった」
あまりにも残酷な描写だが、筆者の意図することは、「事実」の発掘なくして「真実」の発見はあり得ない、ということだ。