米兵が記した惨劇、阿波連で100人以上が自決
上原 正稔 (3)
グレン・シアレス伍長は、手記でこう綴(つづ)る。
<1945年4月27日夜明け、俺たちは渡嘉敷の最南端の浜に上陸し、山の小道を登る途中で3人の日本兵を射殺し、目的地に着くと信号弾を打ち上げ、味方の艦隊の砲撃が始まった。(中略)
山を下りて「阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。その途中、小川に出くわした(阿波連のウフガー上流)。川は干上がり、幅10メートル、深さ3メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。俺たちの姿を見るや、住民の中で手榴弾(しゅりゅうだん)が爆発し、悲鳴と叫び声が谷間に響いた。想像を絶する惨劇が繰り広げられた。大人と子供、合わせて100人以上の住民が互いに殺し合い、あるいは自殺した。俺たちに強姦(ごうかん)され、虐殺されるものと狂信し、俺たちの姿を見たとたん、惨劇が始まったのだ。
年配の男たちがちっちゃな少年と少女の喉を切っている。俺たちは「やめろ、やめろ、子供を殺すな」と大声で叫んだが、何の効果もない。俺たちはナイフを手にした大人たちを撃ち始めたが、逆効果だった。
狂乱地獄となり、数十個の手榴弾が次々爆発し、破片がピュンピュン飛んでくるので、こちらの身も危ない。全く手がつけられない。「勝手にしやがれ」とばかり、俺たちはやむなく退却し、事態が収まるのを待った。
医療班が駆け付け、全力を尽くして生き残った者を手当てしたが、既に手遅れで、ほとんどが絶命した。>
この集団自決については一切表に出たことがなかった。だが、海上挺進第3戦隊陣中日誌は記す。
<3月29日―悪夢の如(ごと)き様相が白日眼前に晒(さら)された。昨夜より自決したる者約200名(阿波連においても百数十名自決、後判明)。首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部(けいぶ)を切断したる者、戦いとはいえ言葉に表し尽くし得ない情景であった。>
シアレス伍長の手記を見事に裏付けている。第3戦隊陣中日誌は後、詳しく紹介することにしよう。






