沖縄闘争の系譜 源流は「コミンテルン」

《 沖 縄 時 評 》

今も「渋谷暴動」を継続

沖縄闘争の系譜 源流は「コミンテルン」

渋谷暴動事件の現場に建立された慰霊碑=東京都渋谷区

 「星一つ 落ちて都の 寒椿」

 沖縄の人々が上京した折に、ぜひ訪ねてほしい場所がある。東京都渋谷区にある小さな慰霊碑である。

 JR渋谷駅のハチ公前から、通称「文化村通り」を進み、東急百貨店本店を右に折れてしばらく行けば、神山町東交差点に至る。慰霊碑はその先の傍らに、ひっそりと佇(たたず)んでいる。冒頭の句はその碑に刻まれている。裏面にはこうある。

 「沖縄返還阻止闘争警備において、渋谷区神山地区の警備活動中に殉難した故中村警部補をここに顕彰する」

◆中核派が警察官殺害

 中村警部補とは、中村恒雄氏のことだ。当時21歳(巡査、殉職後に警部補)。極左集団の暴動に備えるため新潟県警から東京に派遣されていた。殉難したのは1971年11月14日午後3時ごろのことだ。

 この日、極左集団・中核派は渋谷駅周辺で暴動を起こし、機動隊員らに火炎瓶を投げ付け、鉄パイプで襲い掛かった。中村警部補は殴り倒された後、ガソリンを掛けられ、火を付けられて落命した。残忍極まりないやり口だった。

 それから46年を経た今年5月、事件の首謀者、大坂正明容疑者(67)は広島市にある中核派のアジトで逮捕された。非公然活動家らの支援を受け、捜査の網をかいくぐり巧妙に逃亡を続けていた。治安当局の血のにじむ、地道な捜査が実った逮捕劇だった。

 碑にあるように中村警部補は「沖縄闘争」の犠牲者である。発端は1971年6月に日米間で調印された沖縄返還協定。これに反対する左翼勢力は同年11月10日に沖縄でゼネストを決行した。中核派はそれに呼応し、暴動を起こした。

 こうした卑劣な反対闘争に屈することなく、沖縄県民は翌72年5月15日に悲願の本土復帰を果たした。沖縄では米軍による犠牲者だけが報じられがちだが、本土では共産集団によって少なからず警察官が犠牲となってきた。

◆共産党も同様の事件

 渋谷暴動事件の3年前の68年1月、警察庁警備局は戦後左翼暴力事件をまとめた『回想』と題する書籍を上梓(じょうし)した。警備に直接携わった現職警察官やその遺族らの生々しい手記が約50編つづられている。

 同書の「序」で川島広守警備局長(当時、後にプロ野球コミッショナー)はこう述べている。

 「私は、この『回想』の原稿を読みながら次第に眼頭の熱くなるのをこらえることができなかった。殉職された札幌市警の白鳥警備課長、警視庁の印藤巡査、死をもって身の潔白を訴えられた平地区署の熊谷巡査、そのご遺族や関係者の手記は、決して忘れることのできない事実の記録であるだけに、切々と読む者の胸を打つ」

 札幌市警の白鳥警備課長は52年1月、自転車で帰宅途中に日本共産党札幌地区委員らによって射殺された。主犯格は逮捕されたが(有罪確定)、指名手配犯3人は北京に逃走。このうち死亡が確認されていない2人は今なお、手配中だ。

 白鳥課長の部下だった岩淵徳太郎警部補(出版当時)は「事件の捜査に従事した思い出はつきない」とし、とりわけ印象に残った出来事をこう記している。

 「(日本共産党による)軍事行動が計画され、さらに実行手段の打ち合わせを行ったというアジトが、北海道大学内の各所にあり、理学部の地下室からは、当時、武器の製造研究に使用された火薬類や試験管が発見され、また、軍事方針のパンフなどが大量に発見されたことである」

 警視庁の印藤巡査は練馬署旭町駐在所に勤務する駐在巡査だった。51年12月、「行き倒れがある」との連絡を受けて向かった現場で、日本共産党北部地区軍事委員長らに古鉄管や棒杭(ぼうくい)などで殴り付けられ殺害された(有罪確定)。誘い出しての襲撃だった。享年33歳。

 印藤巡査の妻、君代さんは「次女誕生日の祝いの白米も食べず、不帰の人となった夫」と題し、「亡夫の仏前に静かに手を合わせ、成長した子供たちの寝顔を見やりながら、秋の夜ながのひとときを過ごすとき、過ぎこし半生がさながら走馬燈にように瞼にうかんできます」と回想している。

 このような日本共産党の暴力事件の犠牲者は火炎ビン闘争期(50~53年)に後を絶たなかった。朝鮮戦争の最中のことだ。日本共産党はモスクワからの指令を受け「50年綱領」を採択、北朝鮮の侵略に呼応して軍事路線に転じ、各地で暴動を起こした。

 川島局長は魔手に掛かった警察官や関係者に思いをはせ、こう述べる。

 「理想社会の建設という美名の下に法秩序を無視し、暴力をほしいままにする非人間的な集団に対し、いいようのない憤りを感じる。…真の民主主義と暴力とは絶対に相容れない。民主主義擁護を唱えながら大衆の暴力を、直接にせよ間接にせよ是認し、これをあおるものは、民主主義そのものを否定する破壊者であり、無法者である」

 この言葉はそっくり沖縄の反米闘争家に当てはまる。「基地のない島」という美名の下に法秩序を無視する彼らは、まごうことなく無法者である。そのシンボル的存在が、沖縄平和運動センター議長の山城博治被告だろう。

◆極左集団が反対運動

 山城被告は2016年10月、米軍北部訓練場(東村、国頭村)のヘリコプター離着陸帯建設の反対闘争で同訓練場に不法侵入し、有刺鉄線を切断して器物損壊の現行犯で逮捕された。公務執行妨害や沖縄防衛局職員への傷害などの複数の容疑で今年3月まで5カ月間、拘束された。支援団体は不当拘留と声高に叫ぶが、最高裁は「勾留継続は憲法に違反しない」として釈放抗告を退けている。

 言うまでもなく、渋谷暴動を起こした中核派も無法者である。今なお、暴動を正当化し、機関紙『前進』(2017年6月8日号)では「大坂同志へのデッチあげ弾圧」と強弁し、「怒りをこめて徹底的に粉砕しつくそう」と主張。「渋谷暴動の偉大な地平」と称して沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移転阻止を叫び、過激な辺野古闘争を繰り広げている。革マル派や革労協など他の極左集団も同様だ。

 警察庁の松本光弘警備局長は今年3月、参院内閣委員会で「(沖縄米軍基地の)反対運動を行っている者の一部には極左暴力集団も確認されていると承知している」と、初めて極左集団の沖縄闘争に言及した。彼らの正体をよくよく見極めておかねばなるまい。

 その源流は日本共産党である。さらにその源流はレーニンが創設したコミンテルンで、日本共産党は「コミンテルン(国際共産党)日本支部」として発足(1922年)。満州事変が勃発すると、「戦争を内乱に転化せよ」との「32年綱領」を採択し、武装闘争を展開した。日本共産党は「戦争を呼び込む党」だった。

 ソ連のスターリン書記長が53年に死亡すると、スターリン批判(56年)が起こり、やがて中ソ対立(60年代)に発展。国際共産主義が分裂すると、コミンテルン直系の日本共産党への反発が強まり、そこから「革命的共産主義者同盟」が登場。この組織が今日の中核派や革マル派である。

 一方、日本共産党は55年に武装闘争から「平和革命路線」に転じた。これには武闘の先頭を切っていた学生党員らが猛反発し「共産主義同盟(ブンド)」を結成、ここから赤軍派や日本赤軍、連合赤軍などが生まれた。社会党青年部から派生した社会主義青年同盟は社青同解放派や第4インターなどを生み出した。

 これが極左集団の系譜だ。彼らは国際共産主義に呼応し、あるいは「忖度(そんたく)」して闘争を仕掛けてきた。60年安保闘争、65年日韓条約反対闘争、70年安保闘争、ベトナム反戦闘争しかりである。いずれもソ連や中国のプロパガンダによる。

 70年安保闘争に挫折した彼らは、沖縄闘争に活路を求めた。それはベトナム反戦や朝鮮連帯(北朝鮮支援)と軌を一にしていた。

 こうした文脈の中で、辺野古闘争を捉えておかねば、彼らの本質を見誤るだろう。渋谷暴動は今も沖縄で続いていることを忘れてはならない。

 増 記代司