「人類館事件」の真相、アイヌと同列視に反発

《 沖 縄 時 評 》

日本国民の一員として自覚

 米軍北部訓練場(沖縄県東村・国頭村)のヘリパッド建設に反対する市民らに対し、大阪府警の機動隊員2人が「土人」「シナ人」などと発言したことが本土による沖縄差別であると大問題になった。沖縄に対する偏見や蔑視、差別を問題にする時、沖縄メディアがすぐに話題にするのが「人類館事件」である。

 「人類館事件」は、沖縄差別が表面化した最初の事件として位置付けられている。

◆博覧会で遊女展示

「人類館事件」の真相、アイヌと同列視に反発

2008年に上演された戯曲「人類館」のチラシ

 「人類館事件」は沖縄の演劇集団の知念正真氏が戯曲を書き、幸喜良秀氏が演出した演劇「人類館」を発端にして問題化された。「人類館」は1978年に岸田戯曲賞を受賞した。上演されるまで「人類館事件」が沖縄差別であると問題にされたことはなかった。演劇「人類館」は 沖縄から連れてきた男女に調教師が日本人になるのを強いる演劇であり、差別をテーマにしている。実は演劇は実際の「人類館事件」とは懸け離れた内容である。実際に沖縄から連れてきたのは女性2人であり男女ではなかった。

 女性は遊女であり、その時代には男を展示することは勿論(もちろん)のこと一般女性を展示することも難しかった。遊女だったから展示できたのである。沖縄県民差別というより“沖縄遊女差別”と言えるものであった。

 1903年に大阪・天王寺で第5回内国勧業博覧会があり、博覧会で民間業者主催の学術人類館が開かれた。学術人類館に遊女2人が展示されたことに対する沖縄の抗議から展示が廃止されたのを「人類館事件」と呼んでいる。当時の資料によれば学術人類館は以下のようなものであった。

 日本に近い場所から異人種を集めて、風俗や器具や生活の模様等を有料で客に見せるという目的で、北海道のアイヌ5人、台湾生蕃(せいばん)(第2次大戦前の日本統治時代、日本の植民地であった台湾の高砂族のうち、漢民族に同化していなかったもの)4人、琉球2人、朝鮮2人、支那3人、印度3人、同キリン人種7人、ジャワ3人、バルガリー1人、トルコ1人、アフリカ1人、都合32人の男女が民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行った。

 最初に沖縄県が抗議したのは沖縄県から遊女(売春婦)を2人連れてきて、遊女を「琉球婦人」として展示していることであった。遊女を「琉球婦人」とされていることに対し、地元で抗議の声が挙がったのである。しかし、琉球新報は遊女を「琉球婦人」としていることではなく沖縄の婦女が展示されていることに抗議した。

 当時の琉球新報の主筆の太田朝敷(ちょうふ)らはこう批判した。

 「陳列されたる二人の本県婦人は正しく辻遊廓の娼妓(しょうぎ)にして、当初本人又は家族への交渉は大阪に行ては別に六ヶ敷(むつかしき)事もさせず、勿論顔晒(さら)す様なことなく、只品物を売り又は客に茶を出す位ひの事なり云々と、種々甘言を以て誘ひ出したるのみか、斯(こ)の婦人を指して琉球の貴婦人と云ふに至りては如何に善意を以て解釈するも、学術の美名を藉りて以て、利を貪(むさぼ)らんとするの所為と云ふの外なきなり。我輩は日本帝国に斯(かか)る冷酷なる貪欲の国民あるを恥つるなり。彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰(えら)みたるは、是(こ)れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈(あに)これより大なるものあらんや」

 太田朝敷は辻遊廓の娼妓(売春婦)を琉球の貴婦人として紹介して学術という美名で金儲(もう)けをしていることに怒っているだけでなく、沖縄の婦女が台湾の生蕃(奴隷)、北海のアイヌと同じように視(み)られたことに対して侮辱であると怒っている。沖縄は日本であり沖縄の人間は例え遊女であっても日本人であると主張しているのである。沖縄人は日本人なのに生蕃やアイヌと同じように扱うのはけしからんというわけである。

◆商売が目的の興行

 太田朝敷は、人間は平等であるのに沖縄県民は人間として差別されていると主張しているのではない。沖縄県民は日本人であるのに日本人ではない生蕃やアイヌと同じように扱われたことに怒っているのである。太田朝敷は生蕃やアイヌは日本人ではないと主張しているのである。彼らは日本人以下であり奴隷のような存在であると太田朝敷は考えている。彼は台湾の生蕃やアイヌを差別している差別主義者であったのである。

 太田朝敷は沖縄県民を台湾の生蕃や北海道のアイヌと同列させていることは沖縄に対する侮辱だと批判している。彼は沖縄県民は大日本帝国の一員であり日本民族だと主張し、台湾生蕃やアイヌ民族と一緒にするなと言っているのである。それは太田朝敷が大日本帝国主義者であるが故の人類館批判であり、それは同時に台湾生蕃やアイヌ民族を差別する思想でもあったのだ。

 沖縄県全体に人類館への非難の声が広がった。そのために業者は沖縄県出身者の展覧をやめた。沖縄からの批判があっても沖縄人の展示を続行していたなら沖縄差別と言えるが、抗議に展覧を中止したということは沖縄側の主張を認めたことであり差別とは言えない。それに「学術人類館」は博覧会で民間業者が商売を目的に興行したものであり政治的な差別があったわけではない。

 人類館では場内別に舞台を設けて自国の歌舞音曲を演奏させて、通券は普通10銭、特等30銭にして特等には土人等の写真および別席にて薄茶をあげた。

 人類館の目的は、日本人とは違う人種の生活や文化の違いを入場料を取って見せるという商売であった。だから、差別主義による展示とは言えなかった。朝鮮、支那、印度、同キリン人種、ジャワ、バルガリー、トルコ、アフリカと外国人の生活紹介であった。テレビや映画のない時代であったし、日本は300年近く鎖国をしていたから日本国民に外国人の生活を見せるのは意義のあることだったし、見る人も多く、商売として成り立った。人類館の主催者には沖縄を差別する考えはなかった。本土とは違う沖縄の文化や生活を紹介しようとしただけである。

◆差別は劇団の捏造

 しかし、その時代はそれが恥さらしの行為とみられていたから、普通の県民を登場させることは難しかった。だから人類館の主催者は遊女を使ったのである。それは沖縄県民を無視した安易な行為であった。それが県民を怒らせた。そして、太田氏は沖縄県民を台湾の生蕃や北海道のアイヌと同列させていることは沖縄に対する侮辱だと批判したのである。はっきり言えることは人類館主催者には沖縄側が主張したような差別意識はなかった。むしろ沖縄の方にアイヌや日本の植民地であった台湾人への差別があったのである。

 沖縄差別の始まりは「人類館事件」だと沖縄の多くの識者は決めつけているが、「人類館事件」を沖縄差別と判断するのは無理がある。

 そもそもは「人類館事件」をヒントにして沖縄差別をテーマに劇団「創造」がつくった演劇をあたかも歴史的事実だと錯覚しているために生じているのが「人類館事件」=沖縄差別である。「人類館事件」=沖縄差別は劇団「創造」によるでっち上げだったのだ。

 「人類館事件」で注目すべきことがある。太田朝敷が沖縄県民は日本国の一員であると主張していることである。彼だけでなく沖縄県民の多くが日本国を支持し、日本国民の一員として自覚していた。沖縄県民の思想を変えたのは日清戦争で日本が勝ったからである。

 日清戦争に勝った日本は台湾を植民地にした。日本が清国に勝ったので沖縄の親清国派は衰退し、沖縄の人々は日本国民としての自覚が高まっていったのである。

 日本はロシアにも勝った。そして、満州も植民地にした。連戦連勝の日本に沖縄県民はますます日本に心酔し、日本国民になろうとしたのである。

 「人類館事件」で分かったことは、沖縄県民は日清戦争以後は清国に勝った日本に心酔し日本国民であろうとしたことである。誰も清国の属国になろうとは思っていなかった。太田朝敷の人類館への批判をみればそれが明らかである。沖縄ではこの事実が隠されている。

(小説家 又吉 康隆)