古琉球の形成、奄美・喜界島から波及

《 沖 縄 時 評 》

独自の内的発展説は虚構

 1年半ほど前、『琉球史を問い直す』と題する一冊の本が出版された(森話社、2015年4月)。地元紙の琉球新報や沖縄タイムスだけでなく、朝日新聞にも書評が掲載され、少なからず話題を呼んだ。琉球王国の独自性ばかりを強調する「沖縄中心史観」を痛烈に批判していたからだ。だが、その後ほとんど取り上げられない。反日を煽(あお)る人々には都合が悪いからだろうか。琉球王国の出自(誕生)をめぐる歴史見直し論を探ってみた。

◆戦後に沖縄中心史観

古琉球の形成、奄美・喜界島から波及

古琉球の発祥の地の一つとされる今帰仁(なきじん)城跡=沖縄県今帰仁村、筆者撮影

古琉球の形成、奄美・喜界島から波及

 同著の筆者は法政大学沖縄文化研究所教授の吉成直樹氏。奄美博物館学芸員の高梨修氏と琉球大学教授の池田榮史氏が加わっている。ここで言う琉球史は「古琉球」のことだ。

 古琉球はグスク時代の開始期(11世紀頃)から琉球王国への島津侵攻(1609年)までを指す。グスク(御城)は世界遺産の今帰仁城跡や勝連城跡などが知られるが、集落ごとの御嶽(うたき、信仰の聖地)から発展したとされる。国家が形成され、沖縄の基礎を築いた時代。それが古琉球である。

 この時代の従来のイメージは、次のようなものだろう。狩猟採集生活から次第に農耕社会へと移行し、やがて富者が地域の支配者となって各地でグスクを構え、その中から支配者を束ねる強力な王(按司)が現れ、三山(南山、中山、北山)の三つの王統が並立、その後、南山の佐敷按司が戦いを経て全島支配者となり「琉球国」を築いた―。

 こうした歴史観は第一に沖縄が内部から発展したとする「内的発展」を当然視し、第二に南西諸島の発展の中心は沖縄本島とする「沖縄中心史観」に立つのが大きな特徴だ。これを戦後沖縄の知識人が受け入れ、いつの間にか常識とされた。その背景について吉成氏は次のように指摘する。

 近代の沖縄学の父、伊波(いは)普猷(ふゆう)(1876~1947年)は「日琉同祖論」に基づいたが、戦後沖縄では熾烈(しれつ)な沖縄地上戦と米軍統治、本土復帰(72年)後も続く米軍駐留によって日本との違い、琉球・沖縄の独自性、独立性が強調されるようになった。琉球王国への憧憬(しょうけい)がその思いを後押しした。

 その画期となったのが高良倉吉氏(琉球大学名誉教授)の『琉球の時代』(筑摩書房、80年)だという。以降、古琉球時代の琉球国の独立性、独自性を強調するあまり、本土地域との間を結ぶ薩南諸島との関連を何ら問うことなく、沖縄島の社会や文化が始原の時から独自の道を歩んできたかのように語られるようになった。

◆考古学が神話を覆す

 そこから「内的発展」と「沖縄本島中心史観」という二つの神話が登場した。だが、近年の考古学はこの神話を根底から覆したのである。鹿児島県の奄美諸島にある喜界島で2005年から始まった発掘調査で、城久(ぐすく)遺跡群が発見されたからだ。

 遺跡群は推定年代が9世紀から15世紀に至る大規模集落で、数百棟の掘立柱建物跡や土坑墓、火葬墓もあり、大宰府(平安期の地方行政機関)を想起させた。すでに奄美諸島ではカムィヤキ古窯群(徳之島)やヤコウガイ大量出土遺跡群(奄美大島)などのほか、グスク跡も多数発見されている。

 城久遺跡群の初期(9~10世紀)のものは、当時の南西諸島には存在しない規模の大きさで、奄美が同諸島の中心だったことを浮き彫りにした。平安時代に編纂された『日本紀略』に997年(長徳3年)に「奄美島」の者が武装して大宰府管内へ乱入し放火、略奪をしたので「貴駕島」に追補命令が発せられたとある。貴駕島は喜界島のことで、大宰府の支所が置かれていたことが明らかになった。

 この時代は唐が滅び(906年)、混乱を経て宋が統一(979年)、朝鮮半島では新羅から高麗に政権が移行(935年)、それによって唐の朝貢貿易から宋による自由貿易へと変化した。

 ここから国家的交易だけでなく、民間交易が盛んになり、南島と本土地域を仲介する南九州の在地勢力のほか、日本商人、高麗商人、宋商人が交易に加わり、東アジアは大変貌を遂げた。後期(13~15世紀)の城久遺跡群はその貿易拠点だったとみてよい。南西諸島の中心は沖縄から見るなら傍流の奄美、さらにその傍流の喜界島だったのだ。

 喜界島の発見を受けて民俗学者の谷川健一氏は『甦る海上の道・日本と琉球』(文春新書、07年3月刊)で、「(沖縄の)原始社会の長い眠りからゆり覚めされたのは、日本からの文化の衝撃によるもの」と論じた。

 谷川氏は晩年の12年6月、『琉球王権の源流』(榕樹書林)で、折口信夫(1887~1953年)の「琉球国王の出自」を再び世に問うている。折口は15世紀初めに沖縄本島の東南海岸、佐敷(現・南城市)に最初の王朝を立てた第一尚氏(15世紀前半)について、肥後佐敷の名和氏の残党が移り住み、根拠地を築いたとする仮説を立てている。

 城久遺跡の発見を契機に谷川氏は再び折口説に光を当て、琉球社会は従来説、すなわち自らの内発的発展によって三山統一に至り、琉球王国を開花させたとする説に与(くみ)することはできないとし、「琉球国形成に日本からの影響の大きさを痛感せざるを得ない」と強調している。

 奄美や喜界島の人々が沖縄に移住し、グスク時代を開いたのである。13世紀に石積みの本格的なグスクが造られるのは鎌倉幕府の滅亡、南北朝動乱の九州への波及と深く関わっている。ここから「内的発展」は根底から否定される。

 真栄平房昭・琉球大学教授が沖縄タイムスの書評で述べるように(15年9月19日付)、吉成氏は古琉球の貿易を倭寇の活動という外的要因とも結び付ける。元を亡ぼした明は海禁政策(自由貿易の否定)を採り、朝貢貿易だけを認め、対日貿易のために九州の南朝、懐良親王(後醍醐天皇の皇子)と交渉するが、埒(らち)が明かず、そのため倭寇の非合法的な活動を朝貢という形式へと転化させた。

 明は倭寇を朝貢体制の枠組みの中に位置付け、倭寇としての性格をいわば去勢することに眼目を置き、国づくりを助けた。それが琉球王国にほかならない。外的インパクトによって倭寇が琉球国になったというのだ。

 吉成氏らは『おもろさうし』(16~17世紀前半に作られた歌謡集)を歴史的資料として読み解き、琉球王国の成立に朝鮮半島の人々を含む倭寇が果たした役割が大きいと論じている(『琉球王国と倭寇』森話社、06年)。

◆左翼史観の見直しを

 ところで「内的発展」を痛烈に批判するもう一人の人物がいる。『シリーズ 沖縄史を読み解く』(日本経済評論社、現在7巻発刊)を精力的に執筆する来間泰男氏(沖縄国際大学名誉教授)である。

 もともと「内的発展」の概念は共産主義の史的唯物論に由来する。原始共同体→奴隷制社会→封建制社会→資本主義社会→社会主義社会という「発展法則」を描いているからだ。だが、来間氏はマルクス経済学者でありながら、「内的発展」を批判し、沖縄に当てはめることに反対している(同シリーズ3『グスクと按司 日本の中世前期と琉球古代 上』)。

 来間氏は谷川氏に同調し「沖縄の歴史は北からしだいに展開してきたもので、奄美諸島以北の歴史が先行し、それが波及してきたのである」と断じている。

 本郷和人氏(東京大学教授・日本中世史)は朝日新聞で『琉球史を問い直す』を論評し、「歴史学は科学であり、客観的な考察を身上とする。だが古琉球時代については文字史料が乏しく、日本中世史の通常の分析方法が有効でない。そのため史像の解明には様々な工夫が必要であり、それは時として現代的な思想信条(沖縄は独立すべきだ等)と抜き差しならぬ連関をもつ」と指摘している(15年6月7日付)。

 そのためか、吉成氏や谷川氏、来間市らの主張が琉球新報や沖縄タイムスでほとんど取り上げられない。反米・反日、「琉球独立論」を後押しするために意図的に封殺されているかのようにもみえる。本土と沖縄との分断工作に与せず、冷静かつ科学的に沖縄の歴史を見直す必要がある。

 増 記代司