社民党の衆院選、マイノリティー政党へ舵

同性愛者・石川氏が看板

 社民党の12月の衆院選は吉田忠智党首になって初めての国政選挙であったが、結果は前回衆院選と大差なし。「月刊社会民主」1月号の巻頭は投票翌日(12月15日)の声明「第47回衆院議員総選挙の結果について」が載り、結果を詫びるものの「不意打ちの解散」「超短期決戦」などで弁解して、小選挙区1議席、比例代表区1議席の維持に安堵(あんど)感すらある。

 「…それでも厳しい戦いの中、現有の2議席を確保することができ、また若い候補者を先頭に新しいつながりをつくることもできました。こうしたことを足がかりとし、来春の統一自治体選挙に全力で臨んで前進を図り、党の再建・再生の原動力としていきます」

 このように、社民党の衆院選の収穫は2議席維持と「若い候補者」の「新しいつながり」であることを明記した。新しさが何だったかと言えば、吉田党首よりも同性愛者を公表する石川大我氏が話題になったことだろう。党として東京ブロックの比例第1位候補にしたのだから、主要な選挙戦略の位置付けである。

 石川氏は2011年に豊島区議会議員に社民党から出馬して当選し、13年福島瑞穂党首辞任に伴う党首選に立候補、今回の衆院選では看板候補になった。しかし、かつて同党は自民党と対決した第一野党の社会党だ。いまや「護憲」のお題目より「ゲイを公表する国会議員の誕生を!」と関心を集め、性的マイノリティー票に活路を求めた。

 これは社民党の行き詰まった姿である。前身の社会党は80年代半ばに自民党の中曽根康弘政権を相手に退潮、86年衆参同日選で惨敗した。党勢が傾くと、昨年死去した元党首の土井たか子氏が委員長に就任しマドンナ・ブームの火付け役となった。

 90年代には政権に食い込み、フェミニズムを引っ提げて「男女共同参画」の時流に乗った。96年に社民党に改称後、村山富市党首(元首相)から党首を継いだ土井氏の下で福島氏や田嶋陽子氏らフェミニスト知識人ほか市民活動家の辻元清美氏、医師で反戦運動出身の阿部知子氏ら女性議員が誕生し、社民党は半ば“女性党”の性格を帯びた。

 しかし、女性議員らは次第に離党。特に鳩山連立内閣参加と離脱が尾を引いた(現在、辻元、阿部両氏とも民主党衆院議員)。03年、05年、同政権誕生の09年衆院選まで社民党は比例区で300万票台、得票率5%前後は獲得していたが、その後は100万票台に落ち込み、得票率も2%台になった。

 「社会民主」14年4月号で「『女性の社会進出』というキーワードの先取りがあった」とかつての社会党を評価する石川氏は、自身を含む同性愛者は「全国に3~5%いる」と指摘している。つまり、今の社民党の得票率より高い。

 だが、東京ブロックで得た社民党の得票率は、やはり2%台で石川氏は当選できなかった。性的マイノリティー層も政党の支持は様々なはず。女性は有権者の半分だが「3~5%」をターゲットにしても党浮上の決め手とはならないだろう。

解説室長 窪田 伸雄