目覚めよ沖縄県民、対中融和は侵略を招く
《 沖 縄 時 評 》
南西諸島防衛めぐる論争 闊歩する沖縄版「白旗・赤旗論」
◆武力侵攻辞さぬ中国
白旗・赤旗論をご存じだろうか。かつてロンドン大学教授の森嶋通夫氏が「もしソ連が侵略してくれば、白旗と赤旗を掲げて降伏すれば、被害は多くないからよい」と言った。
これに対して東京都立大学名誉教授の関嘉彦氏は「ソ連は共産主義の支配の拡大のために機会さえあれば、武力侵攻も辞さないから、しかるべき防衛力を整備し、足りぬところは民主主義の価値観を共有する同盟国の米国に頼るべき」だと反論。世に「森嶋・関論争」と呼ばれた(1979年、月刊『文藝春秋』誌上で)。
どちらが正しかったかは明白だろう。白旗も赤旗も国民を守ってくれない。ひとたび降伏すれば、自由を奪われ、生存を得ても生きる屍(しかばね)と化す。だから先人は言った、「自由か、然(しか)らずんば死を」(米国独立の士、パトリック・ヘンリー)。それが人間の矜持(きょうじ)である。
戦後日本が平和を維持できたのは「平和憲法」のためではない。関氏が指摘したように、しかるべき防衛力と日米同盟があったればこそである。そして今、「ソ連」を「中国」に置き換えることができる。
中国もまた自らの支配の拡大のために機会さえあれば、武力侵攻も辞さない。毛沢東が言ったように「政権は銃口から生まれる」唯武器論の国だ。この原則は今日も不変。人民解放軍は中国共産党の軍隊だ。建軍記念日は国家成立(49年)以前の27年8月1日(共産党の南晶蜂起の日)で、「党の絶対指導下で革命の政治任務を執行する武装集団」と位置付ける。言ってみれば、明治国家が薩長兵をそのまま政府軍にしているようなものだ。
共産党が教示するのは毛沢東の「紅軍四原則」だ。
「敵進めば我退く、敵退けば我追う、敵駐(とどまれ)ば我乱す、敵疲れれば我打つ」(『中国革命の戦略問題』)
◆周到に尖閣侵入計画
尖閣問題でいえば、日本が毅然(きぜん)たる態度を取れば中国は退く。日本が退けば必ず付け入り、中国公船が次から次へと領海侵犯を繰り返し、占領を企てる。それを証拠だてる報道が昨年末にあった。
地元紙、沖縄タイムス12月30日付は1面トップに「尖閣侵入 06年から計画 中国指導部指示 公船の指揮官証言」との興味深い記事を載せた。日頃、中国の軍事脅威を小さく扱う傾向のある沖縄紙にしては珍しい報道だった。
<沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)の領海に2008年12月8日、中国公船が初めて侵入した事件で、公船の当時の指揮官が共同通信の取材に応じ、中国指導部の指示に従った行動だったと明言した上で、「日本の実効支配打破を目的に06年から準備していた」と周到に計画していたことを明らかにした。指揮官が公に当時の内実を証言するのは初めて>
共同通信の“特ダネ”で、地方紙も一斉に掲載した。証言したのは上海市の中国太平洋学会海洋安全研究センターの郁志栄主任(67)。当時は海洋権益保護を担当する国家海洋局で、東シナ海を管轄する海監東海総隊の副総隊長。「北京の命令」に従って中国巡視船「海監51号」「海監46号」を領海侵入させた。ちなみ中国公船を運用する「中国海警局」は18年7月、中央軍事委員会の指揮下にある「武警」に編入されている。
これまで初侵入について日本側は「現場の暴走」との見方が強く、中国側は10年の海上保安庁と中国漁船の接触事件や12年の尖閣国有化への対抗措置と主張していたが、それ以前から計画していたことが明確になったと記事は伝える。
昨年、中国公船(事実上、軍の艦船)が尖閣周辺の接続水域(領海の外縁=44キロ内)に侵入したのは1000回以上、領海侵入は30回以上に上る。侵入の既成事実化を図り、実効支配の機会を狙っているのだ。
これに対して政府は南西諸島防衛の態勢つくりを急ぎ、奄美大島と宮古島、尖閣諸島を所管する石垣島などに陸上自衛隊駐屯地を新設する。中国は「敵進めば我退く、敵退けば我追う」のだから、日本が防衛態勢を敷けば中国は退き、怠れば侵出する。それが(中国共産党の)道理だ。石垣市議会が3月初め、陸上自衛隊配備計画に伴う沖縄防衛局への市有地売却議案を賛成多数で可決したのは当然だ。
◆「無知と傲慢」が問題
ここに沖縄版の「森嶋通夫」が登場する。いわく、「配備は、明らかに中国に対してむき出しの軍事的脅威を高めることになるのは間違いない」(佐藤学・沖縄国際大学教授=沖縄タイムス3月1日付)「武力に武力で対抗して平和を維持できないことは人類の歴史が証明している」(照屋寛之・同教授=同3日付)
防衛力を否定する白旗・赤旗論だ。が、全て話はあべこべだ。むき出しの軍的脅威を高めているのは中国で、国際社会がそう認めている。武力に武力で対抗しなかったから平和を維持できなかった例はいくらでもある。代表例としてチェンバレン英首相の対独融和政策が挙げられる。
ナチス・ドイツは1935年に再軍備を宣言し、ベルリン五輪の36年にライン非武装地帯に進駐、イタリアと共にスペイン内乱にも干渉。ところが、37年に英国の首相に就いたチェンバレンはヒトラーの拡張政策に融和策で臨み、38年に英仏独伊4カ国でミュンヘン協定を締結。これをヒトラーは英国が大陸に干渉しないメッセージと受け取り、39年にポーランドに侵攻し大戦の戦火を開いた。
チェンバレンはミュンヘン協定について「(第1次大戦で)味わった悲惨と不幸を思う時、戦争に勝者はなくすべて敗者である、と言わねばならない。こうした思いからヨーロッパでの大戦争の再現を何としても避けることが私の主要な義務だと感じるのである」(38年7月)と述べている。
米国際政治学者のジョセフ・ナイ氏は「チェンバレンの罪は、その意図にではなく、状況を正しく把握していなかったことへの無知と傲慢にあった」と指摘している(『国際紛争 理論と歴史』有斐閣)。
沖縄の「森嶋通夫」にもそれが言える。沖縄戦の悲惨と不幸を思う意図は否定しないが、問題は中国共産党への無知と傲慢だ。それが尖閣侵略、大戦争を招く。白旗で共産主義に降伏しても赤旗で支持しても命は保障されない。「自由か、然らずんば死を」。それが沖縄戦を戦い抜いた人々の叫びだろう。その気概があってこそ平和が守れる。目覚めよ県民。そう忠告したい。
増 記代司