辺野古移設工事の課題 超軟弱地盤の埋め立て可能

《 沖 縄 時 評 》

羽田も関空も見事やり遂げた

◆ヘドロと格闘し克服

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設をめぐって、沖縄県は辺野古沖に超軟弱地盤が広がっていることを理由に建設工事に異議を唱えている。だが、超軟弱地盤はさほど珍しい話ではない。羽田空港も関西国際空港も埋め立てに成功し、世界有数の空港を建設した。その実績を辿(たど)ってみよう。

 ♪風の中のすばる 砂の中の銀河…。歌手、中島みゆきさんの『地上の星』の歌声で始まるNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX~挑戦者たち~』を覚えておられるだろうか。2000年3月から6年近くにわたって約190本が放映された。いずれも難問克服のサクセスストーリーで、「やればできる」の勇気を視聴者に与えた。

 その一つに「新羽田空港 底なし沼に建設せよ」(04年6月29日放映)がある。番組紹介はこう言う。

 「日本の空の要『羽田空港』。かつて、その場所は『底なし沼』と呼ばれた魔のヘドロの海だった。足を踏み入れると抜け出せない超軟弱地盤。悪臭もひどかった。『羽田地獄だ』現場の作業員たちは口々に言った。その難局に立ち上がったのは、日本の空港建設一筋に生きてきた技術者たち。あのスエズ運河の現場で腕を鳴らした男もいた。『絶対に日本の空を築いてみせる』。前代未聞、ヘドロとの格闘に挑んだ人々の壮絶な物語」

 羽田空港が開港したのは1931年。当初は小さな飛行場だったが、戦後は「空の玄関」に。だが、世界的な航空機時代に対応できず、新たに成田国際空港が建設された。羽田の沖合の海は「マヨネーズ層」「おしるこ層」と呼ばれ、滑走路を増設するのは当時の技術では不可能とされたからだ。

 それでも国内需要の増大に応えるため羽田空港の拡充を余儀なくされ、70年初めに沖合展開事業を立案。81年に着工し、番組が放映された2004年に完成した。技術革新と人々の努力で新空港が生まれたのだ。

 こういう「挑戦者たち」を沖縄県民は想起してほしい。たとえ海底が超軟弱地盤であっても空港は建設できるのである。それが日本の実力。この番組はそのことを立証した。

 昨年8月、県は辺野古沖の埋め立て承認を撤回した。これに対して防衛省は行政不服審査を請求し今年4月、石井啓一・国交相(当時)が撤回を取り消す裁決を下し、県の主張を退けた。

 これに対して県は国を相手取り、「埋め立て承認撤回」の効力回復を求めた訴訟を起こしたが、福岡高裁那覇支部は10月23日、「訴訟の対象になり得ない」(大久保正道裁判長)として県の訴えを却下。それにも懲りず県は上告し、勝算のない「裁判闘争」を続ける。

◆残留沈下も対応可能

 国交相の撤回取り消し裁決は、羽田空港に言及している。「東京国際空港D滑走路の建設等、海面を埋め立てて空港を建設した他の事例においても、施設の供用開始後に残留沈下が生ずることは許容されており、所要の対応を行うことにより設計・施工・維持管理の各段階で残留沈下も対応することが可能なものと認められる」

 羽田空港は前記の「新羽田空港」に引き続いて、新たな滑走路の建設に挑んだ。D滑走路がそれである。「国内最大級のプロジェクト」で、05年から工事が始まり、10年に供用が始まった。羽田空港の南東に橋で繋(つな)がれた離島のような滑走路だ。これもまた世紀の難事業で、五洋建設のホームページに格闘に挑んだ物語が紹介されている(関心のある方はご一読を)。

 裁決にある「他の事例」は大阪・泉州沖にある関西国際空港のことである。関空の開港は1994年のこと。今年9月4日で25年を迎えた。読売新聞9月19日付は「初の空港島 『実験』の25年」と題して特集を組んでいる。

 それを引用すると、住宅街に近い大阪(伊丹)空港が深刻な騒音問題のために夜間の離着陸ができず、航空需要の増加に対応できなくなっていた。導き出された“解”が大阪湾の5キロもの沖合での空港島の造成だ。総埋め立て面積は約1000ヘクタール。510ヘクタールの1期島は水深18メートルの軟弱な粘土層に100万本の砂の柱(砂杭〈すなくい〉)を造る工法が使われた。全体では220万本。今なお地盤沈下と格闘しているが、そのことは逆に残留沈下への対応が可能なことを示している。

 一方、普天間飛行場の場合、“解”は辺野古への移設である。宜野湾市議会は9月27日、「普天間飛行場の危険性除去のための米軍基地キャンプ・シュワブ辺野古崎への移設促進を求める意見書」を賛成多数で採択した。辺野古への移設促進を明記したのは初めてだ。

 辺野古の埋め立て面積は約160ヘクタールで、関空の6分の1以下だ。防衛省の試算では、地盤改良で使用される砂杭は7万7000本。これは1期島の1割以下。軟弱地盤の深さは2倍以上に及ぶが、関空建設から四半世紀、羽田D滑走路の建設から10年以上も経て技術は格段と進歩している。

 例えば、インドネシアは国土の約10%、2000万ヘクタールが軟弱地盤エリアとされ道路建設に苦しんできたが、これに有明海で軟弱地盤の改良に取り組んできた佐賀県の中小企業が果敢に挑んでいる。わが国の軟弱地盤策は最先端で、辺野古沖も間違いなくやればできる。

◆プロジェクトX再び

辺野古移設工事の課題 超軟弱地盤の埋め立て可能

火災が発生した首里城で作業する消防隊員ら(左)=1日午後、那覇市

 さて、この原稿を書いている最中に「首里城炎上」という衝撃的ニュースが飛び込んできた。琉球王国の王城、首里城は沖縄戦で破壊されたため、本土復帰後に復元事業に取り組まれ、1992年に正殿などが完成。さらに今年初めまで復元工事が進められてきた。それが歴史上、5度目の炎上だ。

 復元事業もプロジェクトXにある。02年2月に放映された『炎を見ろ 赤き城の伝説~首里城・執念の親子瓦~』がそれだ。復元は砂に埋まった細かいパズルを探し出すような作業で、まさに「砂の中の銀河」だった。番組は「琉球瓦」の復元に焦点を当てる。

 戦後、米軍統治の下、沖縄の風景は激変、伝統の赤瓦の家並みはコンクリートに建て替えられ、復元の手掛かりは少なかった。琉球瓦を生産しているのは奥原製陶ただ1軒のみで、4代目の奥原崇典氏の尽力によって首里城の瓦が復元された。これに象徴されるように首里城再建は成し遂げられるはずである。

 辺野古と首里城。再びのプロジェクトXを期待したいものである。

 増 記代司