野球は特別な「国民的娯楽」

米コラムニスト ジョージ・ウィル

最も重要なルールは不文律
対戦相手に敬意

ジョージ・ウィル

 

 スポーツの記憶は、慌しくシーズンが過ぎてしまうと、長い間日光に当てられた写真のように色あせていく。しかし、10月29日のワールドシリーズ第6戦で起きた出来事は記憶から消えることはない。生きていればぎくしゃくすることはあるものだが、礼節を守れば円滑に進められるようになることを改めて思い出させてくれるような出来事だった。2人の若者は、まったく意に介していない。だが2人の熟年は、互いにライバルであることをしばし忘れ、守るべき規範があることを改めて教えてくれた。

◇抑制する文化

 ヒューストン・アストロズの才能あふれる三塁手アレックス・ブレグマンは、自身の技術へのこだわりが強く、ルイジアナ州立大学在学中、コーチは、打撃練習がしたいという真夜中の電話に耐えられず、バッティングケージの鍵を渡していたほどだ。

 29日の試合の一回に本塁打を放った。それは見事なのだが、その後がいけなかった。本人はいいと思っている。大リーグでのキャリアの中で初めてで、最後になることは間違いないことをした。わざとバットを持ったまま一塁まで行ったのだ。どうだと言わんばかりだった。

 これがウイルスのように伝染した。五回にワシントン・ナショナルズの21歳の天才フアン・ソトが、大ホームランを打ち、バットを持ったまま一塁まで行った。「かっこいい」と思ったからだ。

 野球の文化がDNAに染み付いているブレグマンは試合後、謝罪した。A・J・ヒンチ監督(45)は、2人の行動を公然と非難した。ナショナルズのデーブ・マルチネス監督(55)も、ブレグマンを非難した上で、「(ソトが)同じことをした時、嫌な思いをした。フアンとは話し合う。こんなことがあってはいけない」と語った。なら、どうあるべきなのだろうか。

 野球はかつて「国民的娯楽」だったが、国民に時間とお金の余裕ができてくると他のスポーツの人気も高まった。スポーツファンの関心を引き、カネを落とさせるために競争が激化した。プロバスケットボール協会(NBA)ファイナルの最後の試合からナショナル・フットボールリーグ(NFL)のプレシーズンゲームの最初の試合まで6週間しかない。それでもまだ野球は特別であり、なくてはならないものだ。目立ちたがりが多い中で、あえて抑制する文化を維持しようとしているからだ。ワシントンの人々は、ナショナルズの監督から学ぶべきだ。

 フットボールでは、タッチダウンを成功させた選手がエンドゾーンで踊る。試合が台無しだ。この目立ちたがりの連中は、名将ビンス・ロンバルディが言ったとされる言葉を思い出すべきだ。「今度、エンドゾーンまで到達できた時は、これまでと同じように振る舞ってほしい」

 野球では、見苦しい行動を取らないよう、慣習というルールで予防措置が取られている。この慣習は書き記されたものではないが、ヒンチ、マルチネス両監督が示したように守らなければならないものだ。慣習法が、過去の社会的慣習や判例から派生しているように、野球のルールは凝縮された歴史的慣習だ。その目的は、激しい戦いの中にあっても、選手に対戦相手に敬意を払わせ、試合を尊重させることにある。

 野球では、人生と同じく、一番重要なルールは書かれていない。書き記されていないルール、ほとんどを両親から学んだルールを守ることで、社会は存続している。経験から学んだ礼節が廃れ、書き記されたルールや公式な決定に押しつぶされないようにしている。

◇幻の完全試合

 2010年6月2日、デトロイト・タイガースのアーマンド・ガララーガ投手は九回2アウトで、27人のバッターを打ち取る完全試合を達成するまであと1アウトを迎えた。完全試合は、大リーグの100年以上の歴史の中でわずか20回しか達成されていない。

 一塁塁審ジェームズ・ジョイス氏が、明らかな間違いをして、ゴロでアウトだったはずのクリーブランド・インディアンズの27人目のバッターをセーフとした。ガララーガは苦笑いを浮かべただけで、27個目のアウトを平然と取った。ジョイス氏は試合後、誤審を後悔しているとコメントを出したが、ガララーガは、人はミスをするもの、試合はあしたもあると述べた。

 タイガースは翌日、いつもと違って選手に打順表を持って行かせた。ガララーガだった。その日の球審は、慣行に従って前の試合の一塁塁審のジョイス氏だった。2人は握手をした。

 すぐに忘れ去られてしまう幻の完全試合の記憶と、忘れられない互いを尊重する記憶、どちらが大切かは、言うまでもないだろう。

 野球の慣行は時代遅れだという人がいる。しかし、劇作家アラン・ベネットの芝居の登場人物が言うように、慣行というものは時代遅れであり、だからこそ慣行と呼ばれるのだ。

(10月31日)