デタラメな調査で大広告、生存者も戦没者名簿に

歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実
上原 正稔 (21)

 1995年1月16日、前代未聞の大広告が沖縄タイムスと琉球新報に出た。48ページにわたる「平和の礎(いしじ)に刻銘する沖縄県出身戦没者名簿」の広告だ。この大広告には県知事の権限内の6000万円(タイムス、新報に3000万円ずつ)が出費されている。

平和の礎

沖縄県糸満市の平和祈念公園にある平和の礎(いしじ)の刻銘碑

 この大広告で発表された「戦没者」とは前年の11月28日から12月9日までに整理されたものだ、ということで約14万9000余人に及ぶ。ところが、調査対象者は満州事変の始まった31年9月から46年9月までに沖縄県および国内はもとより、中国(満州や台湾を含む)、朝鮮、南洋諸島などで戦没された方だと明記されている。

 この名簿を集めたのは各字の長老たちであり、大田昌秀知事の選挙目的であることは明らかだ。実際、この広告が発表されると少なくとも10人の生存者が「生きているのに」と新聞に投稿したり、家族単位の刻銘であるべきなのに「あいうえお」順にしたり、不手際が生じ、翌年、大田知事は6000万円を出してひそかに訂正している。

 そして、実は「平和の礎」建立費用15億円は国が出費していることを誰も知らない。だから初め、憲法の三権分立に触れることを恐れ、「平和の礎は慰霊の碑ではありません。献花や線香はご遠慮下さい」という立て札が立てられていた。

 だが、それよりも何よりも沖縄に関する戦没者調査が実にデタラメであり、「沖縄戦」で一体どれだけの住民が死んだのか、全く分からないことが重要なことだ。

 例を挙げよう。粟国村史(82年版)によれば、「3月23日戦争が始まり、6月9日、4万人のアメリカ機動部隊が無血上陸」となっており、全期間の戦没者約20人と記されている。そして「平和の礎」には「601人」の戦没者名が刻銘されている。アメリカ軍上陸部隊は1000人であるのに4万人に、20人弱の戦没者が600人に膨れ上がっている。なぜか。満州事変から戦後までの粟国村出身者を刻銘したからであり、アメリカ上陸部隊の数があきれるほど違うのは、粟国村では大戦争があったと思い込んでいたからだ。

 ほかの市町村もやはり同じだ。調査は字単位で行われているが、その数字は全て粟国村同様デタラメだ。

 筆者は95年、沖縄タイムスから「沖縄戦トップシークレット」という本を出版し、その最終章が「死者の数を膨らませたのは誰か―誤謬(ごびゅう)を重ねて作られた戦没者数の悲劇」で、大田知事や島津与志こと大城将保氏らの救い難い失態について糾弾したが、「平和の礎」の沖縄出身者戦没者数の、これまた救い難い実態について触れることができなかった。原稿を送稿したのが戦没者氏名発表の大広告の前だったからだ。