最終段階迎えたシリア内戦

渥美 堅持東京国際大学名誉教授 渥美 堅持

「アラブの春」とは別物
部族の生き残り懸けた戦い

 約7年以上にわたるシリア内戦が、一時的と判断されても不思議ではない停戦を迎えた。今年6月に入りシリア政府軍は、シリア南部一帯に分散的拡散状態にあったいわゆる反政府勢力に対する軍事的制圧を拡大強化した結果、南部一帯、南西部一帯からの反政府勢力の一掃に成功した。結果は全滅ではなく、反政府勢力との間に撤退協議が行われ、その結果のことであった。反政府勢力と漠然とした名称で呼ばれる集団は、シリア政府軍とは交渉せず、ロシア軍との交渉に応じ、その結果、シリア北西部イドリブ県への移駐が合意されたという。その結果をシリア政府が受け入れ、ここにシリア内戦は停戦状況を迎えることとなった。

 反政府勢力が移駐するシリア北西部イドリブ県は、今なお自由シリア軍等の反政府勢力と、この内戦に乗じてシリアに入ってきた「イスラム国」(IS)をはじめとするウスラ戦線等の旧アルカイダ系イスラム過激組織などが同居し、シリア政府と対峙(たいじ)している地域である。

 今回の停戦合意と南部一帯の解放について、シリア政府が反政府勢力との直接交渉には参加せず、ロシア軍が窓口になったことには高い関心が持たれて当然であるが、ロシア軍とシリア政府との関係がどのようなものであったかは現時点で不明である。しかしロシア政府が反政府勢力の一部集団との関係を維持していたことで、今回の結果を迎えることになったのは確かなようである。

 その背景について知る由もないが、考えられるのは無数の集団の寄り集め的な反政府勢力の中にシリア政府との直接交渉を否定した集団が存在し、それが交渉の障害となり部族存亡の危機から脱することが絶望的となったことが、ロシア経由の交渉となった理由と思われる。同時に反政府勢力の中に、アサド政権の存在を認め和平交渉を優先したいと考える集団も存在し、ロシア経由の交渉を望み、アサド政権もそれを黙認したことが今回の撤退を成功させたものと推測される。しかし双方ともそれを公表することは現状では難しいものの、早々とこの内紛を終了させたいと願っていたロシア軍が、好機到来と取りまとめ役を引き受けたのではないかと思われる。

 いずれにしろ反政府勢力とアサド政権の長い内戦は、一時的とはいえ最後の段階に入ったことは間違いなく、今後イドリブ県に集合している反政府勢力との交渉、または抗争に入るかの選択に向けて進み出すことになる。その意味で内戦が完全に終結したとは言い難く、シリア情勢はイドリブ県を舞台として継続されることになる。

 思えば2010年12月、チュニジアの一青年の焼身自殺を契機に起きた「アラブの春」と言われた一連の民衆運動が、シリアで起きたのは11年3月15日のダマスカスであった。それはアサド大統領やバース党の一党独裁に抗議し、政治改革を求める数十人規模の小さな民主化要求デモであった。

 このデモがチュニジア、エジプトで起きた「アラブの春」の影響を受けてのデモであったことは間違いない。だが、その背景には3年にわたりシリアで接続が規制されていた交流サイト「フェイスブック」と動画投稿サイト「ユーチューブ」の閲覧が、2月8日にアサド大統領令により可能になったことがある。そうした環境の下で、政府に対して抱いていた不満が若者たちの間で共有され、その結果、政府への要求運動となって「シリアの春」が生み出されたものと思われる。

 だが翌日のデモでは民主化要求のデモに加えて、政治犯の釈放などを求める150人規模のデモとなり、その結果、治安部隊と衝突した。この段階での「シリアの春」は、この国ではこれまでたびたび起きていたデモとの変化はなく、確たる反政府運動としてのデモではなく、その意味で政権交代をうたった「アラブの春」と同一視されることは情勢判断の間違いであった。

 しかし、3月18日に南部ダラアで起きたデモは、アサド大統領の親族を要職から追放することを要求するデモであり、明らかにダマスカスで起きたデモとは性格の異なるものであった。そればかりか政府側の武力鎮圧に対して、ダラア市民すなわちアラブ部族は武器で応じるという武装抗争的デモを展開し、最初から内戦状態的雰囲気を持つデモとなった。この日からシリアは今日見るような内戦状態に入ったわけである。

 世界の視点は、南部都市ダラアで始まったデモをダマスカスで起きたデモと同じデモであると判断し「アラブの春」としての史観で捉えたが、それがその後に起きたシリア情勢の判断を間違えさせる結果を招いた。シリア内戦はアサド家、バース党支配に対するアラブ系部族による生き残りの戦争であった。日頃の圧力に耐えかねた部族集団が試みた本格的な内戦であった。それ故、ダラア県の今後の動向に注目する必要がある。

(あつみ・けんじ)