奪われるメモリアル構想、大田知事「蝋人形を作れ」
上原 正稔 (16)
1991年3月、筆者は具志頭村の上原文一氏、そして屋宜宣純村長と話を詰めた。その時、村長は「このメモリアル建立構想は全県的なものになるので、大田昌秀知事に協力を仰ごうではないか」と言った。それは確かに正論だが、筆者は大田知事ら“反戦平和運動家”の正体を知り、彼らに「1フィート運動」を奪われたこともあり、ためらいがあった。
大田知事は顔を妙に歪(ゆが)めて、「久しぶりだな」と言った。筆者は早速、要件を切り出し、「知事にもご協力いただきたい」と求めた。
すると、知事は「上原君、実は沖縄戦メモリアル構想は私も昔から考えていた。これは私がやるから、君たちは蝋(ろう)人形で戦争資料館を造ったらよいだろう。君たちは記念碑を建てる金もないだろうし、蝋人形資料館の予算なら私が出そうじゃないか」と抜け抜けと言ったのだ。
筆者の頭に血が上った。「そうか、沖縄戦メモリアル建立の計画を奪う代わりに、思い付いたのが、蝋人形資料館というわけか」。隣席にいる屋宜村長、上原氏らも愕然(がくぜん)としている。
筆者が「そんなこと、これまでどこにも発表したことないじゃないか」と問い詰めると、「考えていたことは確かだ」と言う。
大田知事は薄笑いを浮かべると、怒りに震えて立ち上がるわれわれに、こう言い放った。「あ、そうそう。今日のこの会談は新聞社には内緒にしてくれよ」
知事室を出ると、怒り心頭に発した筆者は「知事抜きで事を進めよう。近々、記者会見で発表しますよ」と言うと、大田知事の正体を見た屋宜村長は「そうしてくれ」と昂然(こうぜん)と受け止めてくれた。
4月16日、筆者は那覇市内で記者会見を開いた。翌日、琉球新報と沖縄タイムスは大々的に報じた。特に琉球新報は「沖縄戦メモリアル 具志頭村に建立へ―全戦没者の名刻み、95年完成予定」と大見出しを付け、その内容を詳しく紹介した。
普通これだけの報道をされたら、どんなあくどい政治家でも、これを奪い取ろうなどと考えぬものだが、大田知事は違った。彼は、全戦没者の名を刻む沖縄戦メモリアルの政治的インパクトを知っていた。だから、新聞報道が出るや否や、「沖縄戦メモリアル」の奪い取り作戦に出た。