言い訳に満ちた法王の演説

アメリカ保守論壇 M・ティーセン

司教らの責任問わず
バチカンで虐待めぐり会議

マーク・ティーセン

 

 「子供の保護に関するバチカンサミット」でのフランシスコ・ローマ法王の閉幕の演説は、恥ずべきものであり、言い訳と言い逃れに満ちていた。

 法王はまず、いかにして「数多く」の虐待が「家族の中で起きた」かに関して長い黙想を行った。集まった司教らに、「少年兵」「飢えた子供たち」「戦争での子供の犠牲」「子供の難民」らが受けている「別の形の虐待」を注視するよう促した。法王が持ち出したこれらの問題は、聖職者による虐待とは無関係であり、何とも奇妙だ。何より恥ずべきは、虐待を隠蔽(いんぺい)し、口外しないよう犠牲者の口を封じた司教らの責任を追及する人々を非難し、教会は「さまざまな利害から、この小さな者たちが経験した悲劇を利用」するような人々に「とらわれていてはいけない」と断言した。

 法王様、残念ですが、それでは不十分です。

 法王は「虐待は(これまで何度もあったが)隠蔽してはならない」と強調する一方で、どの司教や枢機卿が隠蔽したのかについてはいまだに話そうとしない。法王は確かに、サミットのほんの数日前、不祥事を起こしたセオドア・マカリック元大司教の聖職者としての地位を剥奪した。しかし、どうしてそれほどの長い時間がかかったのかをまだ説明していない。誰が、マカリック元大司教の一連の虐待について知りながら、何もしなかったのか。法王はいつ知ったのか。なぜ、虐待が、バチカンに何度も報告されていたにもかかわらず、メディアに明らかにされるまでマカリック元大司教を罰しなかったのか。

◇文書の公開を拒否

 「未成年者の保護」だけにサミットのテーマを絞ることに決めたのは、説明責任の問題と、上位者による弱い立場の成人に対する性的虐待がはびこっている問題を回避するための姑息な策略だった。マカリック元大司教に対する非難は、子供への虐待にとどまらない。自身がその未来を開くことも、つぶすこともできる数多くの若い司祭や神学生とも、強制的に性的関係を持っていたことが伝えられている。ワシントン・ポスト紙は先週、ラウロ・セドルメイヤー師について報じた。まだ若く、司祭だった1990年代にマカリック元大司教から性的虐待を受け、3人の司教に報告したが、何もしてくれなかったと述べている。「虐待を報告した相手に信じてもらえず、無視され、悪者扱いされることで、私は2度、被害者となった」とセドルメイヤー師は言っている。

 マカリック元大司教は、虐待行為が知られていながら、どのようにして昇格したのだろうか。そればかりか、外交と枢機卿の選出で法王の相談相手としても信頼を得ていた。理由は簡単だ。マカリック元大司教のおかげで今の地位に就いている腐敗した司教と枢機卿のネットワークに守られていたからだ。聖職を剥奪するだけでは不十分だ。元大司教がこのようなことをするのを可能にしたネットワークも根絶しなければならない。

 バチカンには、誰がこれを知っていて、いつ知ったのかを明確に示す文書が保管されている。しかし法王は、公開するのを拒み、そればかりか、元大司教の取り巻きの責任も問わなかった。

◇特別法廷の設置進言

 法王はそれとは全く逆に、マカリック元大司教らによる虐待を隠蔽した者らを公表し、罰するための取り組みを妨害した。米紙ウォール・ストリート・ジャーナルによると、法王から虐待問題への対応を任されたボストンのオマリー枢機卿は2015年に、虐待を無視、隠蔽した司教らを裁く特別法廷の設置を進言した。法王はこれを拒否した。同紙は、オマリー枢機卿が昨年、ローマで法王に面会した際、法王は「マカリック問題への本格的な調査を認めないことを明確にした」と報じた。さらに法王は、米国の司教らが、虐待を無視、隠蔽した司教らへの処罰に関する表決を行う予定の会合を中止するよう求め、司教らを「驚かせ」、代わりに黙想会を開くよう提案した。昨年11月に黙想会を開くと法王は、この問題で表決を行うことを禁じた。法王は、この問題でこの5年間、自らの代理人のような立場に置いてきたオマリー枢機卿を、性的虐待のサミットのスピーカーリストに入れなかった。

 法王が司教らの腐敗に対処するまで、オマリー枢機卿は、セックスツアー撲滅の戦いをリードすることはできない。性的略奪を可能にした司教らを追放しない限り、誰も道徳に関する司教の話など聞きたくはない。現世の特権と権力を守ることばかりに汲々(きゅうきゅう)とし、教会の道徳的健全性を取り戻そうとしていない。この恥ずべき不作為のせいで、どれだけの魂が失われ、秘跡から離れていっただろうか。現世では知る由もないが、来世でその答えを見いだすことだろう。

 法王はサミットを「浄化の好機」と捉えていた。だが、その好機を逃してしまった。浄化には二つのことが必要だ。告解と悔悛(かいしゅん)だ。司教らが、その罪を悔い改め、現世での自らの行いの結果を認めない限り、俗世からの許しはない。

(2月27日)