強化ウイルス創出の危うさ


自然のしっぺ返し招く恐れ
アニミズム的視点からの疑念

文明論考家、元駐バチカン大使 上野 景文

文明論考家、元駐バチカン大使 上野 景文

文明論考家、元駐バチカン大使 上野 景文

 新型コロナウイルスの「出自」をめぐり論争が続く。主要争点は、武漢ウイルス研究所から遺伝子を操作された強化ウイルスが「流出」したことで、世界的大感染が起きたのではないかという点だ。そうだったとすれば、中国は、「漏洩(ろうえい)」と「事実の隠蔽(いんぺい)」という「二重の罪」を犯したことになる。が、真相は闇の中だ。

 武漢の研究所からの「流出」論は依然根強い。が、肝腎の点が抜けている。すなわち、研究所からの「流出」は問題だとしつつも、感染力の高い強化ウイルスを開発する「機能獲得研究」自体を非とする意見はあまり聞かれない。「創ら」なかったら「漏洩」もなかったはずであるが、武漢の研究所が高感染力の強化ウイルス「創出」の研究をしていたこと自体は、問題視されていない。どこか変だ。

「神の領域」に入る営為

 それは、中国だけでなく、米国も、「機能獲得研究」自体は容認していたからだろう。もし、強化ウイルスの「創出」研究自体は問題ないという暗黙の前提が国際社会にあるとすれば、筆者はそこにチャレンジしたい。

 驚くなかれ、武漢研究所の「機能獲得研究」には、米国、フランスも一枚噛(か)んでいたとの報道がある。米仏両国は共に、啓蒙(けいもう)思想の申し子であり、「科学至上主義」勢力が強い。中国も、啓蒙主義のうち「科学中心主義」だけはしっかりつまみ食いしている。「科学中心思想」が強いこれら諸国では、この種の研究に対する「文明・文化的な歯止め」は強くない。

 彼らの研究が軍事転用される実際的危険性も気になるが、仮に平和目的に限定されたとしても、それらの研究はなお文明論的に大きな問題をはらむ。つまり、感染力強化の試みは、啓蒙思想が生んだ「科学信仰」「科学絶対思想」の延長線上にあり、一皮むくと、そこには近代人の知的傲慢(ごうまん)さ、ないし、「聖なる自然」への無神経さが透けて見える。

 遺伝子操作の意義を否定するつもりはないが、過度な遺伝子操作は、生命の機微・神秘に手を加えることであり、「大自然の摂理」が示すレッドラインを超えて、いわば「神の領域」に入り込むことを意味する。行き過ぎれば、人智が予期し得ない「災厄」、自然のしっぺ返しを招く恐れなしとしない。

 かかる営為には無神論的な色彩が伴うことから、これに違和感を持つ伝統主義者は、世界全体を見渡せば、少なくないはずだ。アニミズム的心性を残す神道者、自然・宇宙に「仏性」を見いだす仏教者はもとより、西洋のニュー・エイジ派やグリーンも、科学の「暴走」には抵抗感があるものと見る。カトリックやプロテスタントの中にも、米国を含め、同様の気持ちの人は少なくないだろう。彼らの声はバラバラではあるが、保守派の「良識」にはそれなりの意味がある。ウイルス操作をする人たちは、懐疑論の重みに十分留意すべきだ。

 繰り返す。ウイルス操作、遺伝子操作がもたらし得る潜在的危険性に対しては、最大限の慎重さが求められるべきだ。かれらの研究に対しては、科学的観点だけでなく、道徳的、倫理的観点から、「歯止め」がかけられるべきだ。すなわち、世界保健機関(WHO)などで、「研究の限界は何処(どこ)にあるか」「条件は何か」などにつき、政府関係者、ビジネス関係者、科学者だけでなく、哲学者、宗教家などの意見をも汲(く)み取り、国際的ルールが整備されることが望まれる。

科学中心か自然中心か

 以上整理しよう。今般の新型ウイルス流出の件については、「米国VS中国」という構図で論じられることが多い。政治論としては、それは正しい。しかしながら、文明論の視点からはこの構図は妥当ではない。と考え、筆者は、「科学中心主義(米国、中国など)VS自然中心主義(伝統主義者)」という構図を用意した。オープンな米国と秘密主義の中国を同列に扱うことには躊躇(ちゅうちょ)があったが、「科学中心主義」が強いという共通項があることは否定し難い。

 ちなみに、遺伝子組み換え(GM)食品の生産・消費に慎重な欧州連合(EU)や日本は、これに前向きな米中両国と一線を画すが、この違いも、今述べた文明的構図に照らせば肯(うなず)ける。

(うえの・かげふみ)