梅澤隊長は軍命出さず、母の嘘の証言を娘が覆す

歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実
上原 正稔 (11)

 『母の遺言』はこう締めくくる。

 <1980年、母は梅澤元隊長と那覇市内で再会した。本土の週刊誌に梅澤隊長が自決を命令したという記事が出て以来、彼の戦後の生活が惨さんたるものであるということを、島を訪れた元日本兵から聞かされていた母は、せめて自分が生きているうちに、ほんとのことを伝えたいと思っていたからである。

照屋昇雄さん

琉球政府時代に援護課で渡嘉敷島を調査した照屋昇雄さん

 母は「事実」を元隊長に話したことで、島の人との間に軋れきが生じ、悩み苦しんだあげく、とうとう1991年12月6日他界してしまった。>

 以上が宮城晴美さんが発表したコラム『母の遺言―きり取られた自決命令』の要旨だ。

 よく知られていることだが、2000年、晴美さんは高文研社から『母の遺したもの』を出版した。内容は「梅澤隊長は自決命令を出していない」ことを根底に書かれている。しかしながら、自身が1995年の慰霊の日に合わせて沖縄タイムスで発表した重要コラムには一切触れていない。関係者の実名は伏せているが、このコラムは住民の“集団自決”と“援護法”が深く関わっていることを初めて明らかにし、衝撃が走り、軍命により“集団自決”が始まった、と信じて反戦平和を叫んでいた人々はショックを受けた。

 特に、座間味の有力者や関係者は真実を暴露され、怒り狂った。母初枝さんが隊長命令で“集団自決”が始まったと嘘(うそ)の証言で「パンドラの箱」を開け、娘の晴美さんが再び開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのだ。

 そうか、そうだったのか。筆者の目の前の霧が晴れ、全てがはっきり見えてきた。厚生省は一般住民の戦死者でも戦闘に協力した者には援護法による“年金”を支給するという条件を出してきたため、座間味だけでなく、渡嘉敷でも「隊長命令により自決した」ことにせねばならなくなったのだ。

 2006年1月、産経新聞は琉球政府で援護業務に携わり渡嘉敷を調査した照屋昇雄さんに取材し、「遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」との証言を得た。照屋さんは「嘘をつき通してきたが、赤松隊長の悪口を書かれるたびに心が張り裂かれる思いだった」と涙ながらに語った。

 ところが、沖縄タイムスは「照屋氏は1957年には援護課に勤務していないという証拠がある」として産経新聞の「誤報」と報じた。後日、照屋さんは大切に保管していた54年の「任命書」を提出し、この問題は決着したが、タイムスがこの失態を報じることはなかった。