罪をかぶった赤松隊長、援護法適用に「軍命」不可欠
上原 正稔 (8)
筆者は、グレン・シアレスさんの手記を1996年6月1日から13回シリーズ「沖縄戦ショウダウン」として沖縄の新聞で発表した。ショウダウンとはポーカーで賭博師が有り金を全て賭けて、最後の大勝負に出て、その手札をさらけ出す様をいう。ここから、ショウダウン、すなわち、決戦という用語が生まれた。
その中で、長いコラム「渡嘉敷で何が起きたのか」を追加した。その最後で筆者はこう書いた。
<国の援護法が住民の自決者に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村に迷惑をかけることになることを赤松嘉次さんは知っていた。だからこそ一切の釈明もせず、赤松さんは世を去ったのである。
一人の人間をスケープゴート(犠牲)にして『集団自決』の責任をその人に負わせてきた沖縄の人々の責任は限りなく重い。筆者も長い間『赤松さんは赤鬼だ』との先入観を拭い去ることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。筆者は読者と共に、一つ脱皮をして一つ大人になった気がする。だが真実を知るのがあまりにも遅過ぎた。赤松さんは1980年1月に帰らぬ人となってしまった>
2011年10月中旬、兵庫県を訪れ、赤松さんの弟秀一さんに迎えられ、一緒に嘉次さんのお墓参りをした。長年の重荷を下ろし、何だか心が軽くなった。
渡嘉敷の戦争の物語は今、ほんの1ページが開かれただけである。次のページに何が隠されているのか誰も知らない。
では、なぜ筆者はこの時(1996年)「国の援護法が住民の自決者に適用されるには軍の自決命令が不可欠である」ことを知っていたのか、賢明な読者は問うだろう。
その前年の沖縄戦50周年の慰霊の日に合わせて宮城晴美氏が発表したコラム「母の遺言―きり取られた“自決命令”」に全ての理由がある。
6月22、23、24日に発表されたコラムは実に衝撃的なものだった。しかし、今、このコラムの存在については誰も触れない。いや、宮城晴美氏が隠すことに成功したと言えるだろいう。「大江・岩波裁判」の原告も弁護団も、このコラムを引用すれば裁判に絶対的に優位に戦えたはずなのだが、このコラムの存在に気付いていなかったのである。











