渡嘉敷島で聞き取り、赤松隊長への誤解解消へ

歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実
上原 正稔 (4)

 1995年の春と夏、渡嘉敷島を訪ね、「集団自決」の生き残りの人々や関係者から情報を集めた。自決を生き延びた金城武徳さんに自決現場に案内してもらった。そして、海上挺身第3戦隊の陣中日誌を金城さんから入手した。後に大城良平さん、比嘉(旧姓安里)喜順さん、知念朝睦さんらから貴重な情報を入手することができた。

渡嘉敷島

渡嘉敷島の山の中腹から海を臨む

 第3戦隊陣中日誌は、「3月27日。第1中隊は本隊に合流すべく阿波連を撤収、渡嘉志久高地に上陸せる敵に前進を阻止せられ、2、3度切り込み突破を行ふも前進不能となり!」と記録している。

 阿波連の集団自決については前記のように記録している。

 渡嘉敷では「恩納ガーラ」(ガーラは「河原」の意味)と阿波連の川の上流で二つの「集団自決」があったことになる。

 ところで「集団自決」という表現は『鉄の暴風』の執筆者の一人、伊佐良博氏が初めて使った、と後に証言し、戦時中は「玉砕」と使われていることに注意しよう。

 筆者は金城さんに渡嘉敷最北の山中の恩納ガーラへ案内してもらった。山頂の石碑のすぐ北に「自決現場」第1玉砕場があった。だが金城さんは、ここは恩納ガーラではなく、ウァーラヌフールモーと呼ばれているという。恩納ガーラは渡嘉敷村落のすぐ西側を流れる川の中流だったのだ。そこは深い谷間で空襲を避ける絶好の場所だった。この川岸に住民は避難小屋を造ったが、ここでは「集団自決」はなかったのだ。

 恩納ガーラの上流から険しい斜面を登り、北山(にしやま)を越え、ウァーラヌフールモーに達するのだが、現在、川にはダムができ、昔の面影はない。筆者は自分の思い込みに呆(あき)れたが、さらに驚いたことに、金城さんや大城さんらは「赤松隊長は悪人ではない。それどころか立派な人だった」と言うのだ。

 そこで北中城村に住む比嘉さんに会って聞くと「その通りです。世間の誤解を解いてください」と言う。

 知念さんに電話すると、「赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘(うそ)の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」と言う。これは全てを白紙にして調査せねばならない、と決意した。