遺憾な東芝の不正経理操作

尾関 通允経済ジャーナリスト 尾関 通允

世間を欺く“企業犯罪”

傷付いた信用信頼取り戻せ

 いわゆる戦後期のまだ早い頃、自然発生的に株式の集団売買が証券会社の店頭で行われるようになり、しばらく後に会員制度の証券取引所が新発足して、取引所に上場を認められた株式が公式の場で売買できることになった。

 当時は敗戦の痛手で何もかも足りない。企業活動に不可欠の事業資金も、もちろん例外ではない。主要企業は争って自社の株式の上場を目指した。株式市場に上場して公式の場でそれぞれの株価が形成されると、それに対応して増資新株を発行し、相応の追加事業資金を入手できる。増資による自己資本の拡大強化は、それに即応して金融機関からの借入金も期待できる。

 まだ古い体質から抜けきれず、資金不足に悩む株式会社が証券会社と組んで自社株の市場価格をつり上げ、それでもって増資新株を発行して企業活動積極化に必要な資金を確保する決して公正ではない手法により、自社の業績を実勢よりよく見せかける「粉飾決算」をあえて行う不心得な企業が、ときに現れるようになった。

 前置きが長くなったが、近ごろ表面化した東芝の不正経理操作は、かつての粉飾決算を想起させる。無論、以前の粉飾決算とは動機も目的も違うだろう。善意に解すれば、日本を代表する有力企業の担い手としての誇りと自信を、全従業員や主要取引先や東芝製品の需要者ほかに強く印象づけたい意図が、全くなかったとも断定することはできまい。だがしかし、不正・不適切な会計処理は、たとえ動機がどうだったであろうと、まぎれもなく一種の“企業犯罪”にほかならない。その理由のいくつかを例示的に挙げよう。

 一、株式市場における公正な価格形成を妨げ、市場に対する投資家の信頼を多かれ少なかれ傷つけた。

 一、東芝内部の監査も、公認会計士による外部からの監査も、場合によっては十分に機能し得ないことを印象づけた。現代経済社会での公認会計士の役割は極めて重いだけに、企業経営の厳正な在り方確保に目を光らせる公認会計士の監査さえ十分には行き届かないほどの不正な経理処理は、とりわけ悪質というほかあるまい。

 一、東芝社内の善意の従業員も、それなりに多かれ少なかれ心に傷を負ったことだろう。

 一、東芝製品を購入使用する消費者一般や、販売を扱う業者の中にも、東芝という会社の実態の一部が明らかになったことで、その在り方に不快な疑念を持った向きがあろう。

 一、同様の思いは、国内のみならず海外でも多かれ少なかれ生じている。海外の場合、東芝という一企業にとどまらず日本の諸企業の中には“虚偽”もあり得ると印象づけたことが全くないとは断定できまい。しかとは目に映らなくとも、今後の日本諸企業の海外展開にとって不利な材料の一つには違いないだろう。悪質な経理操作が東芝という日本の有力企業で発生したことが、潜在的にではあっても日本の企業風土に対する疑惑を生んでいる疑念なしとしない。

 これらの観点からして、東芝の不適切な会計処理の在りようを調べていた第三者委員会が「同時進行的、組織的に実行され、経営判断として行われた」との認識を示したことの意味は重大である。企業会計は厳正でなければならないのに、その鉄則を組織ぐるみで無視し、しかも不適切な会計処理が経営トップを中心にしたものだったとは、全くあきれる以外にない。不正経理で同社株への投資家の信頼を失ったこと自体は、いわば自業自得だが、投資家一般や関係金融機関、さらに関係諸企業にも直接間接に迷惑が及んでいる。

 戦後期のような混乱時代でも、「粉飾決算」は厳しく非難された。日本が屈指の経済大国になっている今日、事情や背景ないし動機は違うにせよ厳正であるべき企業会計の根幹である鉄則を、組織ぐるみで無視し、しかも、不適切な会計処理が経営トップを中心にしたものだったとは、腹立たしいのと併せて驚きかつあきれるほかない。

 東芝も株式を公開しており、株式市場で売買されている。いやしくも株式を公開して証券市場に上場している以上、この種のいわば世間をあざむく不適切な会計処理を行っていたこと、かつ、不正処理の頂点にいたのが経営トップだったこと、さらにそれが少なくも一代限りではなかったこと(換言すればしばらく続いたこと)などは、この企業の体質そのものに軽視するわけにはいかぬ異常さが潜在しているのではないか、とさえ疑わせる。

 企業の存在意義そのものは社会への広い意味での奉仕、つまり有益な製品やサービスを、継続的かつ安定的に提供すること、これをおいて他にない。不適切な会計処理で傷付いたのは、ひとり東芝の株主や善意の取引先、同じく善意の従業員らに止まるものではないことを、東芝全社で改めてよくよく考えてほしい。そうすることが内外の信用と信頼を取り戻す道に通ずるだろう。過ぎたことは取り返しができないが、筆者はそう信じている。

(おぜき・みちのぶ)