TPPで自給率維持の主張を

杉原 誠四郎教育研究者 杉原 誠四郎

完全ではない自由市場
諸国にある生活文化の聖域

 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉が最終段階を迎えようとしている。もっとも、アメリカのオバマ大統領が予定していたインドネシア、ブルネイへの訪問を取りやめ、TPP首脳会議に欠席したので、年内妥結の可能性は遠のいているようだ。

 そうしたなかで、日本では聖域として考えられてきたコメ、麦、牛・豚肉などの農畜産物について聖域扱いにできない雰囲気が芽生えつつある。

 環太平洋の加盟国が関税をできるだけ撤廃し、それによってより強固な自由貿易圏をつくり、経済のより強固な発展を期すというのがもともとTPPの理念であるから、こうした聖域があるのは、ほんらいおかしい。

 しかし、考えてみなければならない。聖域のないすべての関税を取っ払った自由貿易圏をつくることは、加盟するそれぞれの国の国民にとって、そして世界的視野に立って見たとき、ほんとうによいことなのか。そのことを改めて考えてみるべきではないか。TPP交渉に正式参加する前の論議を蒸し返しているようで気が引けるが、国境間に関税のない経済市場は、それぞれの国民から見て、そして地球規模で見て、果たしてほんとうに理想なのか。

 確かにコメの関税は778%であり、だれが見ても異常な関税率に見える。コメの関税を取っ払い、コメが自由に輸入されるようになればコメの値段は8分の1以下になると考えられるのだから、コメの関税はあまりに消費者の利益を無視し、生産者への異常な保護というように見える。

 しかし、日本ではこのようなコメの値段を維持することによって、山村のあの美しい棚田の風景が守られているのではないか。農地の統合によって農業の規模を拡大し、コメの値段の上昇を避ける努力は一方で十分になされなければならないが、このような高い関税は、日本の環境保護に多大な貢献をしているのではないか。もしコメを作らないようにして、それでいて自然環境の維持を図ろうとすれば、どれほど費用がかかるであろうか。計算する術はないが、コメの生産にかけている費用は環境保護の費用の代替わりになっているといえるのではないか。

 食料への関税は、もう一点、別の観点からも見ておかなければならない。食料生産の様式というものは、それぞれ国、民族の古い伝統的な生活様式に密接に結びついている。そのような生活様式をここで生活文化というならば、それぞれの国の生活文化の維持のため食料生産は止めてはならないということになる。ということは、それぞれの国は食料を一定程度に自給して、その国や民族の生活文化を守らなければならないということになる。

 考えてみるに、どの国の国民も民族も、そこに生活するとすれば、その固有の生活文化の中で生活するときにのみ幸せ感をもって生活できるのではないか。食料生産の様式を奪われた場合、どうしてこの生活文化を守ることができるのか。

 だとすれば、そのような自然環境保護および生活文化保存のため、TPPに加盟する国は、逆に食料については、一定程度に自給率を維持し、そのために必要であれば関税をかけてよいと、TPPの中で、逆の提案をしていかなければならないのではないか。

 経済の発展にとって、市場は貴重なものである。供給と需要との関係で、生産者はできるだけ安く多くのものを生産し、消費者はできるだけ安く多くのものを消費することは望ましいことであり、そのために、市場はかけがえのない役割を果たしている。しかし、例えばサカナがいかに安い費用で捕ることができるからといって、乱獲すれば、そのときだけは人々のためになっているが、長期的には漁業資源の枯渇として、人々のためになっていない。が、市場自体にはこの乱獲を止める装置はない。経済外からの規制によって乱獲しないようにする以外にはない。このように市場は完全なものではないのだ。

 TPPによる関税の撤廃によって、自由市場が拡大し、経済の発展に資することは確かだ。しかし、それによる経済の発展も限界がある。いつまでも発展し続けるわけではない。TPPによる関税撤廃による経済発展の効果もやがて小さくなり、さらなる発展は望めなくなるときがくる。

 とすれば、経済発展のためとして、自然環境の保護および生活文化の保存を無視することは馬鹿げている。自然環境保護および生活文化保存のため、TPPの加盟国は、食料については、逆に一定の自給率の維持を課し、そのために必要であれば関税を設けてよいというように、逆の提案をしていかなければならないのではないか。TPPによる経済発展に幻惑して、人にとってあまりにも貴重なものを失ってはならない。

(すぎはら・せいしろう)