スルコフ前露副首相の復活
在野5ヵ月で補佐官に
隅に置けないチェチェン通
プーチン第3期政権の1年が過ぎた今年5月、クレムリン内外に激震が走ったことは記憶に新しい。メドベージェフ内閣の主要閣僚、ウラジスラフ・スルコフ副首相が突如辞任(大統領が追認)したのである。辞任の理由についてはロシア版シリコン・バレー「スコルコボ」計画をめぐる汚職との関連などさまざまの臆測が流れた。ペスコフ大統領報道官は、大統領の公約を実現しなかったためとだけ述べた。スルコフ氏が閣外に去ったことは、メドベージェフ政府にとって大きな打撃となった。「公正ロシア」党副代表のミハイル・エメリャノフ下院議員はこのスルコフ解任劇を「一時代の終わり」と評した。
スルコフ氏は2011年12月、メドベージェフ内閣に移るまでの約11年間、プーチン大統領の側近の一人として大統領府に務め、「ロシアの灰色の枢機卿」とか「クレムリンのイデオロギスト」などと呼ばれ、「主権民主主義」ないしは「管理民主主義」を主唱した実力者だった。
そのスルコフ氏が、5カ月足らずのうちに政権中枢(大統領の政策チームの一員)にカムバックした。スルコフ氏ちょうど49歳の誕生日(9月21日)の前日に、プーチン大統領から大統領補佐官に任命されたのである。ほぼ同時に、ロシア議会はタチアナ・ゴリコワ女史を会計検査院総裁に選出した。健康・社会発展相だったゴリコワ女史はグルジア領から独立したアブハジア、南オセチアの社会・経済問題も担当していた。スルコフ補佐官はゴリコワ女史のこの担当分野を引き継いだ。ペスコフ報道官によれば、スルコフ補佐官はグルジアやウクライナとの外交問題も担当することになる。
スルコフ氏は在野中に目立った政治的活動をせず、おとなしくしていた。辞任後いろいろなインタビューを受けた同氏は、「私はウラジーミル・プーチンという偉大な人物と一緒に働いていて幸せだった」と繰り返し大統領を称えていた。
スルコフ氏の復帰に関しては、有力な政治家スルコフ氏をいつまでも在野に置いておくのはプーチン大統領にとって危険であり、政権内部に取り込むのが得策という判断が働いたとの説がある。「クレムリンの一番の人形遣い」(大統領選に出馬し敗退した富豪ミハイル・プロホロフ氏の言葉)などと酷評されたスルコフ氏だが、プーチン大統領の同氏に対する信任は極めて厚く、彼の忠誠心、経験や創造力を高く評価していたので、誕生日の前日、大統領は直接彼に会って、復帰人事を伝えたといわれる。
ところで、スルコフ氏の出自については一部謎めいている。リペツク地方の教師の家庭に生まれたという公式の発表とは異なり、チェチェン人の父、ロシア人の母という両親(そろって小学校の教師だった)の間に64年9月21日、ドゥバユルト(当時はチェチェン・イングーシ自治共和国)で生まれ、5歳まで父親(アンダルベク・ドゥダーエフ)の姓を取って、アスラムベク・ドゥダーエフと名乗っていた。チェチェン共和国の初代大統領ジョハル・ドゥダーエフの親戚にあたるといわれる。両親が離婚したため、母親と一緒にリャザンに移ると、姓を母親(ジナイダ・スルコワ)の姓から取ってスルコフとし、ウラジスラフを名乗った。
彼は現在のチェチェン指導者ラムザン・カドイロフ大統領と親しい仲にある。カドイロフ大統領はスルコフ氏を「義兄弟」と呼び、グローズヌイの大統領執務室にはスルコフ氏の写真を飾っているという。スルコフ氏が辞任後、最初に訪れた地方はチェチェンだった。長年、彼のボディガードはチェチェン人である。カドイロフ大統領は今回のスルコフ氏のカムバックにいち早く祝意を表明した。チェチェンとの密接なつながりをもつ政治家としてスルコフ氏は特別な存在である。チェチェンを含むカフカス全体の平穏に、彼の政治力は欠かせないとプーチン大統領は心得ているともいわれる。
スルコフ氏はモスクワの鉄鋼・冶金専門学校で学んだが、途中で兵役に就いた。83~85年ハンガリー駐在のソ連軍砲兵隊に勤務していたというのが公式の履歴だが、セルゲイ・イワノフ元ロシア国防相(現大統領府長官)が06年11月にテレビ・インタビューで明らかにしたところでは、スルコフ氏はソ連軍参謀本部情報総局(GRU)の諜報部門に勤務していたという。これが事実であれば、スルコフ氏も、プーチン政権を支えてきたシラビキ(武力省庁出身者)の一人と言える。一介のカフカス出身の青年が一時期、大統領、首相に次ぐ3番目の実力者として、中央政権内で絶大な権力を誇り、甚大な影響力を行使するまでになった秘密がそこら辺にありそうだ。
インタファクス通信によれば、スルコフ氏のカムバックは約1カ月前から政権内部で検討され、スルコフ氏は今回の辞令を受け取る前に、外交問題担当で大統領府に戻ることを提案されたが、これを断ったという。スルコフ氏は与党「統一ロシア」の結党に参加したほか、親クレムリン青年組織「ナーシ」の創設者で知られ、もともと内政専門である。この分野での現在の実力者はビャチェスラフ・ウォロジン大統領府第1副長官。両者が今後内政問題でうまくタッグが組めるのかどうかに注目が集まっている。
(なかざわ・たかゆき)