イスラエルの思想と自己犠牲

加藤 隆名寄市立大学教授 加藤 隆

特権を与えられた人間
神の命令に従う責任と義務

 『ツキを呼ぶ魔法の言葉』の著者として一世を風靡(ふうび)した五日市剛氏だが、彼が学生時代にイスラエルで出会ったおばあさんの言葉は人を引き付ける。「良いことがあったら“感謝します”と言ってみてはどうかな。それにこの言葉は、願っていることがまだ実現していなくても“そうなりました。感謝します”と言い切ると、本当にそうなるんだから」。つまり、未来のことであっても、既に叶(かな)ったこと、実現したこととして言葉にすると、未来と現実が繋(つな)がってしまうのだと教えている。

 実は、イスラエルの言語であるヘブライ語は不思議で、時制というものがなく、完了形か未完了形の区別しかない。先のおばあさんの教えも、その言語観を引き継いでいるし、イスラエル人の思想の根幹には、神にとっては、すべては既に完了しており、時制などを問題にしないという強い自覚がある。あとは、神の完了を人間側がいつ目の当たりにするかということだけが残っているというのだ。

 このイスラエルの言語と思想が投げ掛けている世界観は、我々の日常の感覚とは百八十度違っている。しかしながら、損得勘定など形而下のことばかりに振り回され、方向性を見失っている社会に一石を投ずることになるのではないだろうか。二点にまとめて論じたい。

 第一は、His StoryかMy Storyかの吟味である。昨今の大半の日本人の価値の軸はMy Storyである。それを自己実現と言ってもいいし、自分探しと言ってもいい。私の幸福こそが最大の価値であり、私の権益を拡大することにあくせくしている社会である。しかし、イスラエル人の思想の根幹はその反対なのだ。つまり、「人生の主人公は自分ではない」というHis Storyの自覚が、彼らのアイデンティティーの土台に横たわっている。或(ある)いは、His Storyの中に呼び出された我であるという自覚かもしれない。

 このことで思い出すのは、終戦直後の文部大臣として教育基本法制定に深く関わった田中耕太郎の含蓄ある指摘だ。彼は教育基本法の真髄を説明して次のように記す。「人間は被造物であるが、自由を与えられていて、機械ではなく、また禽獣(きんじゅう)でもない。しかし、人間の自由は絶対的のものではなく、自己を超越する終局目的を実現する方向に行使されなければならない。我々の自由は、神の宇宙計画を地上に実現し、世界史の進展に参与する栄光を持ち得んがために与えられたのである」。田中はカトリック信仰を持っていたが、ここに示されている教育基本法の精神はMy Storyの奨励ではなく、明らかにHis Storyに根差している。少なくとも、この時点までは、人間とはどのような存在なのかという人間論が基礎付けられているが、それが高度経済成長を経る過程で削(そ)ぎ落とされていく。やがて、教育界はこのような教育基本法のバックボーンに心することもなく、浅薄な人間礼賛主義で糊塗(こと)する始末である。

 第二は、自己犠牲ということである。面白い逸話がある。昭和30年代の話だが、文藝春秋社の企画で三島由紀夫と石原慎太郎が対談をしたことがある。その中で、編集者は両氏に短冊を渡し、「愛とは( )である」の( )を埋めてほしいと依頼する。了解した二人は、相手に分からないようにペンを走らせたのだが、奇(く)しくも、二人とも同じ言葉を書き込んだ。「愛とは自己犠牲である」と。

 筆者は、ときに自分の身体が一隻の軍艦に思えることがある。身体に配属された胃腸や肝臓、心臓や血液は、主人が寝ていても健康を維持しようと必死になって働いてくれる。また、私が脳を通じて命ずれば、神経系や筋肉系は一斉に聞き従い、歩いたり労働をしたりと忠実な実動部隊になってくれる。まさに、司令官の命令一下できびきびと行動する水兵の姿と重なる。それどころか、我々は人間の特権で、いのちを宿している家畜や魚介から始まり、物静かな野菜の類まで口にして栄養源とする。彼らは、いのちを失(な)くすことに地団太(じだんだ)を踏んで拒絶することもなく、静かに自らを差し出してくれる。なんと、人間の具(そな)えている命令権の強大なことであろうか。

 ところで、そこまでの特権を持つ人間の存在意義はなんだろう。それは、先に触れた「自己犠牲」ではないだろうか。西欧に「ノブレス・オブリージュ」と言う言葉がある。身分の高い者は、それに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があることをいう。人間は、普段はいのちを宿している生きものに養われていたとしても、いざというときは「自己犠牲」をしてでも社会的責任と義務に努めるということなのだ。かように、一人の人間や艦隊の司令官は、その命令系統の中で強大な権限を賦与されているとしても、より大いなる指令者を前にするとき、その命令に聞き従う責任と義務があるということなのだ。そして、それは往々にして自己犠牲を伴う。我々は心のどこかで直感していないだろうか。この世界は自己犠牲の連鎖によって真実の愛を完成させようとしていることを。

 さて、最近の物理学的時間論の「ブロック宇宙論」によれば、時間とは現在から未来へ向かって流れていくものではなく、過去・現在・未来が等しいものとして存在すると主張する。何か、ヘブライ語の世界観の現代版を見ているようで興味津々である。

(かとう・たかし)