バジパイ元印首相の冥福祈る
良好な日印関係に貢献
高い理想を追い続け具現化
戦後インドの最も偉大な指導者で、特に今日の良好な日印関係に多大な貢献をしたアタル・ビハリ・バジパイ元首相が8月16日、逝去された。生涯独身で通し、インドの独立運動に関わり16歳でインド義勇団(RSS)に入団し、当時のイギリス政府に逮捕され、24日間の獄中生活を体験した。彼は20代で政治家になり上院議員2期、下院議員10期という長い政治活動の中で自分自身の信念を貫き、長い野党生活を経験している。
1950年代から80年代までは国会内においてチベット支援を続け、支援議員団の団長を務めたこともある。その関係で私も80年代に野党のリーダーであったバジパイ氏と、後に副首相兼内務大臣など要職を務めた盟友のA・K・アドバニ氏から懇談の機会をいただき、日印関係についていろいろ愚見を述べることができた。当時、野党だったからかもしれないが、私のような若輩者に時間を割き、日本について関心を示すということは、よほど日本が好きで、重要視しているという印象を強く持った。
やがて幸運の女神が味方し、バジパイ氏は96年に首相の座に着いたが、弱小政党の寄せ集めであったため国会での信任を得られず、わずか13日で退任された。2年後の98年に再び首相の座に着き、99年まで国のかじ取りを行った。
この間インドは核実験を強行し日本など幾つかの国からは非難されたが、結果的にはアメリカをはじめ世界から核保有国としての認知を受けた。日本のマスコミは当時、パキスタンとの競争で核実験を実行したかのように伝えていたが、バジパイ内閣の国防大臣ジョージ・フェルナンデス氏は「インドは第一の仮想敵国である中国の核の脅威を常に意識し、おびえなければならなかった」と明言した。
実際インドは62年、予想もしていない中国の侵略を受け、さらに60年代に既に核実験を実行していた中国に対し、ある種のトラウマを持ち続けていたので、この実験を境にインド国ならびに国民が新たな自信を持ったことを感じた。
またパキスタンとの関係改善に踏み切り、自らイニシアチブを取ったのもバジパイ首相であった。独立以来、対立を続けていた両国は平和構築へ大きく前進したが、土壇場になって両国軍がカルギルで衝突した結果、双方に数百から数千人の犠牲者を出し、パキスタンのシャリフ首相は軍事クーデターによって失脚した。この時の主犯格であった元将軍ムシャラフ大統領とも平和構築のため、バジパイ首相は真剣に長い首脳会談に臨み注目を浴びたが、残念ながら会議終盤、パキスタンの国内情勢により無念の結果となった。
99年の総選挙でインド人民党が勝利し、バジパイ氏は引き続き首相を務めた。再選されたバジパイ首相は2000年に森喜朗首相の訪問を受け、両首相は「日印グローバル・パートナーシップ」構築に合意。翌年バジパイ首相が訪日し「日印グローバル・パートナーシップ」の宣言を行った。
これがさらに05年、小泉純一郎首相の訪印で「日印グローバル・パートナーシップ」の戦略的方向性を打ち出し、翌年バジパイ政権に代わって新たに首相の職を受け継いだ国民会議派のマンモハン・シン氏の訪日で「日印戦略的グローバル・パートナーシップ」に発展。今日、世界でも数少ない「日印特別戦略的グローバル・パートナーシップ」関係を誇っている。
現在の安倍晋三首相とインドのモディ首相はこの特別な関係を重視し、さらに発展させることで強い信頼関係を結び、アジアの安定と発展ひいては国際平和構築に努めている。安倍首相の発想から生まれた、インド太平洋において自由、民主および法の支配に基づく国際秩序の実現のため、両国の関係はアジア諸国からも注目される存在になっている。
両国は経済面のみならず技術、軍事、外交においても、2カ国間関係を超えて包括的に21世紀に向け特定の国の覇権を阻止すべく、アメリカやオーストラリアなど民主主義と自由と人権を尊重しながら、特別戦略グローバル・パートナーシップを実りあるものにするに違いない。このパートナーシップの生みの親として、バジパイ元首相の功績が評価される時代が必ず来ると信じている。
バジパイ元首相の逝去に接し、ブータン国王はじめ、パキスタン暫定政権を代表し司法・情報大臣のアリ・ザファ氏などがインドに駆け付け、世界各国からは国家元首、首相らの弔電が殺到した。インド野党のラフール・ガンジー国民会議派総裁ならびに就任したてのパキスタンのイムラン・カン新首相も弔電を送り、心からの弔意を示した。
ここに偉大なるインドの息子、詩人で雄弁な大衆指導者、謙虚な現実主義者でありながら高い理想とビジョンを追い続け、それを具現化してきたバジパイ元首相のご冥福を祈りたい。






