存在意義問われる地方私立大
課題は学力・意欲の向上
学生を社会に送る「最後の砦」
ここ数年、地方の私立大学、特にいわゆる「偏差値」が高くない大学の存在意義について議論されることが多くなったように思える。すなわち、低レベルの大学はいらないのではないかという議論である。
私が大学で教えるようになって30年が過ぎた。実はこの仕事に就いてからずっと悩み続けていることがある。しかし、おそらくそれは世間の人々が想像するものとは多少のズレがあるだろう。当事者側の事情を知ることによって、日本における大学についての議論が深まり実のあるものになってほしいと思う。
30年前に初めて保育系短大の非常勤講師として教壇に立った時、私にとっては何から何まで「異文化」体験であった。
約150人の教室。授業時間が始まり私が入室しても私語は止まらない。私が学生として経験し「当たり前」だと思っていたことが通用しない世界だったのである。
私語をさせない方法、授業を聞いてもらう技術については次第に分かってきたので、半年後には私の授業で私語をする学生はほとんどいなくなった。しかし、最も苦労したのは学生たちの「基礎学力」の低さである。授業内容の前提となる「知識」がないために、その前提となる「知識」の解説から始めなくてはならない。ところが、その「知識」のさらに前提となる「知識」もないことが多い。どこまで降りていけばいいのだろうかという問題と、それの繰り返しでは本来大学の授業で教えるべき内容になかなかたどり着けないという問題。
しかし、年月を重ねていくうちに次第にその解決策が見えてくるようになった。もちろん、まだまだ不十分ではあるが機会があればいつか書いてみたい。
当時、より深刻なのは出口の問題であった。保育士(当時はまだ保母と呼ばれていた)や幼稚園教諭に憧れて入学してきた学生が約200人。沖縄県だけで毎年数百人の学生たちが保育士の資格を得て卒業していくのであるが、公立の保育所や認可の保育園の採用はほとんどない。幼稚園に至っては全県で10人採用があるだろうかというレベルである。
卒業生のほとんどが無認可の保育園で働くことになる。無認可保育園では毎年多くの採用があったが、当時、手取りで月8万円という所も少なくなかった。保育士1人当たりの子供の数も多く責任は大きい。
私の悩みは、その現実を知っていながら入学させてしまう短大で勤めているという罪の意識みたいなものであった。受験生や新入生に現実の厳しさを話しても、「それでもやっぱり子供が好きなので保育士を目指します」とほとんどの学生は元気に答えるのである。
あれから30年、まさか、保育士が不足する時代が来るとは夢にも思わなかった。しかし、基本的な構造は変わっていない。保育士が不足しているのは、保育士の資格を持っている人が足りないのではなく、条件(特に給与)が悪いので成り手がいないということである。
低レベルの大学なんて閉鎖した方がいいと思っている人も多いだろう。しかし、それについては当事者としての反論はある。簡単に言ってしまえば、いわゆる「低偏差値」の学生を受け入れる学校がなくなれば、若年失業者があふれてしまい社会が不安定になってしまうということだ。現在の若者はたとえ「学力」がなくても仕事は選ぶ。彼らの進学先を塞いだとしても、不足している労働市場に彼らが流れていくわけではない。ニートが増えるだけである。
かなり大袈裟(おおげさ)に言えば、地方の私立大学で勤めている私たちは、彼らを社会に送りだすための「最後の砦(とりで)」としての使命感を持って仕事をしているつもりである。世間からの大学に対する風当たりはますます強くなっていく中、「そもそも、そういう学生を卒業させてしまったのは誰なの」という愚痴をこぼしたくなる時もある。それでも、私たちには入学させた責任がある。
今、多くの大学では、十分な学力が備わっていない学生をいかに伸ばすか。十分な意欲を持ち合わせていない学生のモチベーションをいかに高めるかという課題に熱心に取り組んでいる。しかし、最近さらに大きな問題を抱えるようになった。それが、いわゆる「子供の貧困」問題である。
「奨学金」という名の利子付き学資ローンを借りなければ学業を続けられない学生は多い。中には、月12万円の「奨学金」のほとんどを家族全員の家計に回している学生もいる。彼らは、就職できたか否かにかかわらず、卒業と同時、少なくとも半年後には、年金と奨学金の返済が始まる。12万円×12カ月×4年×利子を10年以上かけて返済するのである。
使命感を持っているとはいえ、同時に私たちの罪悪感のようなものも大きい。
ここまで借金をして彼らが頑張っているのに対して私たちはそれだけの教育ができているのだろうか。私たちができるのは、入学した時よりも少しでも成長できるようサポートするだけである。本当にそんなことでいいのだろうか。私たちは日々そんなことを悩みながら授業や研究を続けている。
(みやぎ・よしひこ)






