インターネット依存症の闇
深刻な心身の機能低下
ネット遮断し自由取り戻せ
今日では、ネットは仕事や日々の生活に不可欠な通信手段で、さらにスマートフォンも急激に普及しつつある。それに伴い「ネット依存症」は、今後ますます増え続ける中で心身への悪影響が懸念される。
昨今、ゲームや電子メールなどに夢中になり過ぎて止められず、インターネットへの依存が懸念される中高生は全国で約51万8000人と推定される(厚生労働省・研究班調べ)。その内訳は、中学生約21万3000人、高校生約30万5000人が依存性が強いという。
その依存性の強い中高生の約6割が睡眠障害に陥って昼夜逆転の生活をし、食事も不規則で栄養障害に加えて、体力の低下、骨粗しょう症になり、さらには不登校や引きこもり、抑うつ症状などを呈し、成長期にある子供たちの心身が蝕(むしば)まれて深刻な状況に陥っている。
「インターネット依存症」〈Internet Addiction Disorder〉とは、日常生活に支障を及ぼす程のインターネットへの過剰な依存状態である。
世界保健機構(WHO)は、2015年に改訂する国際疾病分類で改めて正式に病気として認定する見通しであるという。
ゲッツバーグ大学臨床心理学者キンバリー・ヤングは1994年頃から「ネット依存症」は「行動的依存症」であり、臨床的には「賭博依存症」と位置づけている(岡田尊司著「脳内汚染からの脱却」)。
確かに「ネット依存」の症状としては、過度な熱中と高揚状態、それに伴い時間のコントロールが困難であることが指摘される。
精神科医の岡田尊司によれば、その症状として、攻撃性の亢進と共感性の低下、それに加えて、無気力感に魘(おそ)われ、妄想的傾向や時に神経過敏傾向などを挙げている。
この「ネット依存」の問題は、実に深刻でネット自体が利便性と有用性があるため、単にそれを排除することは、今日の生活が成り立たなくなるし、今や生活の必需品となり、その利便性を提供するだけに、その対処が極めて難しい瀬戸際に直面しているという他はない。先ごろ、文部科学省もその対策に乗り出し、来年度から小中高生を対象に一定の期間ネット環境から遮断する合宿方式の「ネット断食」を試みようとしている。
その依存対策で最も重要なことは“変わろうという本人の意思”〈Readniess to change〉であるとマックレーン病院の臨床医、マレッサ・オルザックは語っている。
即ち、ネット依存に陥っている子供たちに“今のままの生活でいいのか、それとも自分はどう在りたいのか、変わろうとする気持ちを持つこと”こそ大事であるとオルザック医師は問いかけている。「ネット依存症」への対処法は、まず第一に「自分の魂の自由を回復すること」で主体性を持って自分を取り戻すことこそ、全ての始まりであると思う。
その二は、「自分をコントロールし、新しい自分を生み出すこと」である。
その三は、「社会全体で子供たちの未来を考えて改善策を講ずること」である。子供たちを犠牲にしてその国の将来はないのである。
そして、その四は、「業界も依存症の子供たちに積極的に関心を持ち対処すること」である。依存性の高い機器には良識をもって自粛する対応こそ求められるのではなかろうか。
なぜならば、これまでは自然に任せておけば子供は健やかに元気に育ったのであるが、昨今は子供を放って置いたら思わぬ落とし穴が待ち受けて心身を蝕む危機が潜んでいる。それ程に子供たちの置かれている状況は、急速に「メカ化」された機器に汚染されているのである。その結果、次第々々に感情が鈍麻(どんま)になり、相手の気持ちを思いやる感性が退化し、言葉さえも短絡化しつつある現状は実に憂慮に堪えない思いである。
この「ネット依存症」の心理的メカニズムは、“現実から逃避したい心理状況から過度にのめり込んでしまう”ことで、さらに恐ろしいことは、“自分がいま何をしているのか解らなくなる”という自己の喪失感ではなかろうか。このように、テクノロジーの進展は人間の心をも破壊してしまう危険性が潜んでいる。
この科学技術の加速化は、社会生活が行き詰まった様相を呈しつつあるのではなかろうか。近代を支えてきた機械文明は、生命をも機械と見なし今日に至っている。
単に、速さや効率・便利性のみを競う思考から脱却して、謙虚に自然と折り合って行く道が必要である。いま、それを打開する考え方や生き方が問われていると思うのである。その考え方に示唆を与えてくれるのが「老荘思想」ではないかと思うのである。
“機械あれば必ず機事(きじ)あり、機事あれば必ず機心(きしん)あり。”(「荘子」・天地篇)
即ち、「効率のよい仕掛けが使われるとそれに伴って巧(たくら)みが起こってくる。巧みが起こると、人間の心までそれに振り回されてしまう」というのである。いま、改めて、老荘思想の「無為自然」(何事も作為をしないであるがまま)にの思いを抱かずにはいられないのである。(敬称略)
(ねもと・かずお)