公民教科書と反安保法の因果

小山 常実大月短期大学名誉教授 小山 常実

記述ない国家観・国防

優等生ほどお花畑の世界観

 本年9月19日、安保法制が成立した。混迷に混迷を深めた安保法制論議を聞いていて、三つのことを思った。相互に関連する日本共産党、公民教科書、「日本国憲法」、これら三者のことだ。戦争法案とのレッテル貼りを行い、安保法制反対運動のタクトを振ったのは明らかに日本共産党である。安保法制反対運動で注目を集めた「シールズ」を育てたのも共産党だと言われる。

 反対運動が語る言葉や思想、反対運動を支持するテレビのコメンテーター等が語る言葉や思想は、戦後70年間公民教科書で展開されてきたものと全く同じである。そして、公民教科書の思想を根底的に規定しているのは「日本国憲法」である。今回は、公民教科書の問題について考えてみよう。

 安保法制との関連で問題となるポイントは、①侵略戦争史観に基づき9条を正当化する、②国家論を隠してきた、③国際法を教えず、国際社会が競争社会であることを隠してきた、という三点存在する。

 侵略戦争史観を少年期に植え付ける

 ①の点から見るならば、昭和20年代の公民教科書は、ほとんどが侵略責任論を説き、侵略責任を果たすために9条を作ったのだと説明してきた。例えば昭和28~31年度版の日本書籍は、「日本は侵略国として、東洋を戦火のうちにまき込み、多くの生命と財産とを犠牲にし、多くの罪のない人々を不幸のどん底におとしいれた」(⑫巻)と記し、9条の戦争放棄を正当化する。このような教育を受けた人たちが、平成に入ってから国家の中枢を占めるようになっていく。少年期に侵略戦争史観を刷り込まれていたからこそ、河野洋平氏は慰安婦問題で河野談話を出し、細川護煕氏は最初に首相として「侵略」を口走ったのである。

 実は、今日の教科書も、「侵略」と記す教科書こそわずかだが、全く同様の侵略戦争史観に立っている。例えば、「シールズ」のメンバーたちが教わったと思われる平成18~23年度版のうち、採択の過半を占めた東京書籍は、「日本は、第二次世界大戦で他の国々に重大な損害をあたえ」たから、「憲法第9条は、戦争を放棄し、戦力をもたず、交戦権を認めない」と規定したのだと説明している。

 国家論を教えない

 次に②の点であるが、昭和20年代の公民教科書は、国家抜きの国際社会論を展開し、国家の持つ対外主権さえも教えていなかった。昭和30年代以降は対外主権について教えるようになるが、それでも、国家とはそもそも何か、その役割とは何か、ということをきちんと教えずにきた。今日に至っても、きちんと国家論を展開し、国家の役割が防衛であることを明確に書いているのは自由社の『新しい公民教科書』だけである。

 国家論を無視してきたのは、単に中学教育だけではない。大学教育でも、体系的な国家論は教えられない。体系的に国家論を研究している学者は、日本には本当に少ない。国家論を教わらず平和主義だけを教わり、先ずは大学生となり、次いで官僚や政治家になってきたわけだから、「優等生」や元「優等生」ほど、安保法制に反対するのは当然なのである。

 国際社会が競争社会であることを隠してきた

 最後に③の点であるが、戦後の公民教科書が描く国際社会は、お花畑世界観でおおわれている。公民教科書には、「世界平和の実現」や「人類の福祉」は説かれるが、「国益」という言葉が出てこない。この言葉を使うのは、前述の平成18~23年度版では『新しい公民教科書』だけであった。現行版でも自由社と育鵬社だけである。

 今日でも、多数派教科書は国益と国益が衝突する競争社会として国際社会を捉えようとしない。問題はすべて話し合いで解決するものだという協調的な国際社会観しかないのである。実は、このお花畑世界観は、教育だけではなく、学問の世界にも及んでいる。国際法の研究者が本当に少ない。戦時国際法の研究者に至っては、本当にいない。だからこそ、戦前の歴史を評価する場合にも、きちんとした議論ができないのである。

 以上見た①②③の三点は、全て、第9条の戦争と戦力の放棄を正当化するために存在する。公民教科書は、日本は他国に大きな損害を与えたから9条を作った(①)、国際社会の諸問題は話し合いで解決できる(③)と説き続けてきた。そのように説かれても、国家論の立場からすれば、侵略国家であろうがなかろうが、自衛権、自衛戦争、自衛戦力は当然認められることになる。従って、公民教科書は、懸命に、国家論を隠してきたのである(②)。

 ①②③のような公民教育を行っている限り、安保法制をめぐって生じたような混乱は何度でも生じる。公民教育の改善が要請される所以である。先ずは、「日本国憲法」の下でもできる②③の改善、即ち国家論と国際社会=競争社会論の教育が要請されよう。

(こやま・つねみ)