和の精神で憲法13条凌駕を
NPO法人修学院院長・アジア太平洋交流学会会長 久保田 信之
理解不能な「個」の思想
日本人に馴染まぬ西洋哲学
日本国憲法は連合軍総司令部(GHQ)により「個人」という異様な思想の上に構成されているがために、戦後70年以上が経過する中で、日本社会を混乱させる深刻な問題を導き出してきている。「個人」は何時の世にも、どこの社会にも存在するが、自由・平等を勝ち取ったフランス革命に源をおく「支えをすべて排除した個人思想」は、今日、国家のまとまりを薄弱にしている。
わが国の病根を発掘するために、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とある日本国憲法第13条を中心に検討することにする。
検討1 国民を「個人」という理解不能な概念に分解したことから来る混乱。
①「individual」は「神のごとき存在」であるのだから、日本精神文化にある「縦横の繋がりを内包した一個の人間」とは本質的に異なるので、「国民意識」が育たない。②第14条の「人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位、門地により差別されない」とあることも手伝って、私を有らしめ、支えている「大いなる背景」を無視してしまった。③日本国憲法では「思想信条の自由」を持ち「表現の自由」を持った「完成した存在」を前提にするから、克己心、向上心、鍛錬、訓練を通して、個々の資質や品位品格を高める「人間形成・教育」がひ弱になった。④各個人の「権利(欲望)」を一部を抑制しても、総合的に「公共の福祉」を実現するのが「国政」の目的である。しかし、日本国憲法では、多様な個人の幸福追求の権利(欲望)の充足を優先する、とあるから国政は混沌として方向性を失っているではないか。
検討2 この異様な思想の背景を明確にするためには、デカルトにまでいたる必要がある。彼は、1637年に発表された『方法序説』で、「疑い得ない真理」を求めて、疑い得るものをすべて疑うという徹底した懐疑――「方法的懐疑」――を行ったのである。その結果、「外なる存在」はすべて疑いうるが「疑っている我」の存在は疑い得ない。もうそれ以上疑いきれない、すなわち、分割できず、他の何ものをも必要としない存在をcogitoという「懐疑する精神」と捉えたのだ。これがまさしくGHQ憲法でいう「個人」なのである。
換言するならば、この「個人」は歴史もなく社会性もなく時間・空間を超えた存在であって、日本文化でいう「人間」ではないのだ。
検討3 このデカルトの哲学に心酔し、この方法論を使ってラディカルな実験を政治思想の領域で行ったのがトマス・ホッブス である。
彼はその『リヴァイアサン』(1651年)において、「個人」が一切の繋がりもなく、世の中の習慣も偏見もなく、神もないところで生き延びていこうとしたらどうなるか、という思考実験を試みている。彼はまず、自らの生命を維持する権利をもち、何者にも束縛されずに自由に意見を表明し、行動できる「自然権」を保持した個人を想定した。
容易に予想されるところは、各人がその「自然権」を、なんらの束縛もない「自由」な状態でふりまわし始めたならば、自由と自由、権利と権利が衝突しあい、万人の生活はたちまち危険で悲惨なものになってしまう。それゆえ、各人の「自然権」は、自分の生存自身を脅威にさらすことになる。平和に、安寧に人生を送ろうとする「自然権」を認めるとするならば、対立し衝突する他者を、あらかじめ殺しておく権利すら、この「自然権」は含んでいることになるとの結論にたどり着いたのだ。
「自然権」を前提におくならば、己を超えた「公共(の福祉)」という概念がないため、歯止めを持たない「弱肉強食」の修羅場。彼は「万人による万人の闘争」と称した現実が出現するという。結局のところ「自然権」を前提とした社会では、どれほどの強者といえども天寿を全うすることなど望めないことを論証したのだ。
このような悲劇を招かないためには、各人が自らの「自然権」を振り回すのをやめて、それを共通の力――「主権」――へ預けわたし、その「主権」に自分たちの安全を保障してもらう「従属的存在」になるしかない、と結論したのだ。――これがいわゆる『社会契約説』と呼ばれるものの「原型」である。
結論 ホッブスが想定した「原型」を大きくゆがめたJ・ロックの影響を受けたアメリカは、彼ら好みの思想を日本に押し付けた。ホッブスが予言したように、「個人」同士が憎しみあい、殺しあう「万人による万人の闘争」を、日本社会に発生させている。
個人は歴史の産物であり、家庭や社会、国家に支えられてはじめて存在する「お蔭様で生存しうる従属的な存在である」ことを、再認識しなければならないといいたい。豊かな歴史があり、すばらしい自然に守られている日本人こそ、和の精神で西洋近代思想の過ちを正しうる重要な使命を持っていると、強く自覚すべきだ、といいたい。
(くぼた・のぶゆき)