ツケが回る大学再編の動き

大藏 雄之助評論家 大藏 雄之助

柔軟な戦前制度に倣え

教育に占領軍「勧告」の弊害

 文部科学省が国立大学に関して次々に通達や提言を行っている。

 まず5月に、86の国立大学に対して「世界最高水準の教育研究」、「特定分野で世界的な教育研究」、「地域活性化の中核」の三分類の一つを選択するよう通知した。委員会などで審査することはないので大学ごとの自主決定というが、例えば東京大でもすべての分野で「世界最高水準の教育研究」をしているとは考えられないし、地方の大学の中でも非常に小さな研究で特異な成果を挙げている場合もあり、判断は難しい。

 従来、規模に応じて配分されていた1兆1000億円の運営交付金は分野ごとの実績に基づいて差をつけるとのことだが、正しい評価が可能なのだろうか。しかもこれを来年度から実施するという性急さである。

 続いて6月に、人文社会学系(文・法・経など)と教員養成系の学部の廃止や他分野への転換を求める旨を公表した。これは昨年12月に、安倍首相も出席して開かれた産業競争力会議の要請によるものであった。

 これに先立って文科省は私立を含む37大学を「スーパーグローバル大学」に選定し、今後10年間毎年、トップ7校には4億2000万円、残りの牽引30校には1億7000万円を補助することにした。これもまた判定基準ははっきりしていない。

 さらに、少子化で定員充足に苦しむ大学(短大を含む)の救済を兼ねて、希望に応じて技能習得の職業教育専門校に転換する原案を発表した。

 こうした構想は一見もっともな理由があるようだが、実は敗戦後、アメリカの「勧告」に従って6・3・3・4制を導入して以来、ほとんど対策を講じてこなかったツケを迫られているのである。

 戦前のわが国の教育制度は極めて柔軟だった。

 義務教育の小学校は6年制で、その上に準義務の高等科2年があった。

 小学6年を終えると有試有料、原則5年制度の中等学校があった。男子の場合は、現在の高校普通科に当たる中学校と商業学校、工業学校は5年制だったが、農学校と専修学校は4年制が多かった。女子はやはり普通科相当の高等女学校が5年制だったが、地方では4年制が多く、女子商業も4年制のものがあった。また家政学校は3年制も存在したらしい。中等学校進学者は同年齢の20パーセント以下で、今の大学よりも狭き門だった。

 その上の高等教育は3年間の大学に進むことを前提とした語学・数学・哲学等を学ぶ男子のみの3年制の高等学校、または大学予科で、中等学校4年修了で受験することが認められていた。このエリート・コースはアメリカ占領軍が最も嫌ったもので、陸海軍士官養成学校とともに廃止された。

 もう一つの高等教育機関として各種の専門学校があった。これは中等学校卒業者を対象としており、3年制が一般的だったが、医専・歯科医専のほか、高等師範学校・女子高等師範学校や東京外語は4年制だった。女子には大学はなく、私立の女子大と称していたのはすべて専門学校だった。(面白いことに、高等女学校は大都市以外は4年で卒業だったから、1年早く女子医専や女高師を受験できた)。それらを全部まとめて各県に国立「駅弁大学」(一部短大)を設けたのが間違いの始まりだった。

 修業4年の新制大学には2年間の教養課程が必修と定められたが、当時日本は戦後の窮乏期にあり、教師も学生も生活に追われ、教養教育は定着しなかった。一方、後期2年の専門課程も旧制大学の講義方法を踏襲したために、特に文科系は大部分が形ばかりの大学になった。

 旧制の官立専門学校は、山口・長崎・小樽・彦根・和歌山とY専(横浜市立)の高等商業、工業系では全国的に明専で通じた戸畑の明治専門学校を筆頭に秋田鉱山・桐生染織・京都蚕業ほか久留米・浜松・彦根などの高等工業、農林では札幌農学校・駒場農学校から始まって盛岡・鹿児島と鳥取・三重・宇都宮・岐阜・宮崎の5高等農林、薬学で富山・熊本の薬専といずれも特色があったにもかかわらず、県域総合大学の一学部に編成され、いわゆる共通一般教養を強要されて、往年の名声を失った。

 もちろん社会にも責任がある。大企業は大学教育に期待せず、偏差値の高い大学の卒業生を学部を問わず採用して社内教育・訓練を施した。それでも私が卒業したころは4年生の10月15日就職試験開始が守られていたが、最近は公称1年前が裏内定で破られているという。

 日本の大学に中途半端な教養課程をおしつけたアメリカは学部4年のほとんどを広義の教養教育にあてて、専門教育は大学院課程に移行させている。国会改革が国会議員ではできないように、大学改革・再編も大学関係者に任せておけば結局は骨抜きに終わるであろう。

おおくら・ゆうのすけ)