「道徳」検定教科書導入に思う
生徒指導の展望が必要
韓国教科書は「修身」に匹敵
中央教育審議会の道徳教育専門部会が去る8月7日、特別な教科として「道徳」を設置し、検定教科書を導入する方針を明らかにした。道徳教育の教科化は政府の教育再生実行会議で昨年2月提言されていたことで、中央教育審議会としてはやっと重い腰を上げたということだろう。
かなりの道のりはあったが、道徳教育が教科化し、その教科書が検定教科書ということになるのは喜ばしい。だが、そこでいう検定教科書とはどんな教科書のことであろうか。そのことで提言したいことがある。
それは韓国の道徳教科書を参考にして作るべきだという提言だ。日本の戦前の教育で道徳教育を担っていた「修身」が占領下で廃止されて約70年経ち、その後、昭和33年に「道徳の時間」が設けられ今日に至っているが、この道徳教育は教科書がないもので、当初から有効性のない道徳教育と言えた。
したがって道徳教科書のノウハウは日本の教育界、教育学界ですっかり失われている。かの修身のレベルまでの教科書の作成は容易なことではない。
ところが実は、戦前の修身は、隣国韓国で温存され、修身教科書に匹敵する道徳教科書が作られ、学校で使われているのだ。
韓国といえば、今日の反日教育の猖獗(しょうけつ)を見れば、とても「修身」を温存した道徳教育が行われているようには見えないが、実際には静かに行われているのだ。また、道徳教育が行われているのに、韓国の場合、この春の大型旅客船セウォル号の沈没事故で船長が真っ先に逃げ出したというようなエゴ的行為が横行している。そこにはやはり道徳教育の無力さというものがあるのだ。学校教育で行う道徳教育には万国共通、初めから無力なところがあるのだ。
逆に日本の場合でいえば、学校での道徳教育は敗戦後のおよそ70年間崩壊状態にあるのに、平成22年の東日本大震災には多くの日本人が節度ある行動をし、世界から称賛を浴びた。学校では道徳教育が行われていないのに、日本人の行動はそれほど非道徳的ではなかったのだ。
つまり、道徳というものは、学校で行う道徳教育よりも、日常の生活のなかで伝わるものの方が大きいのだということだ。
だとしたら、道徳教育などはしなくてよいのか。学校における子供の教育の究極的目的が人間形成(教育基本法的にいえば、「人格の完成」)であるから、その教育の中核はやはり道徳教育でなければならない。日本の社会がいっそう高度複雑になっているとき、その社会の構成員は道徳的でなければならない。そうだとすれば、大人の教育意思として、道徳教育は子供たちに行われなければならない。
ところで、道徳教育を理論的に考えるとき、対で考えなければならないものに生徒指導がある。つまり学校生活における生活指導である。なぜ児童である小学生の生活指導まで含めて「生徒指導」というのかについては、生徒指導が子供の学校生活に対して行われる生活指導であり、家庭における生活指導は除くという意図があったからと考えられる。
この生活指導と道徳教育は密接な関係がある。すなわち言うならば、道徳教育は子供の将来に向けての生徒指導であり、生徒指導は子供の現時点での道徳教育ということになるからだ。生徒指導でしばしばいじめが問題になるが、いじめを止めさせることは現時点の人権教育であり、思いやりの心を育てることで現時点の道徳教育なのだ。
道徳の教科書を作るというとき、まず課題となるのは、生徒指導との関係である。道徳教育で教えたことが、子供の学校生活の中でどのような実行や実践と結びつけなければならないのかという展望がなければならない。
そこで重要なことが、道徳教育は教師という人間によって教えられるということだ。数学教育や理科教育の場合のように、教師が副次的な存在ではないということだ。道徳教育は教師自らが自分の生き方とかかわって教えるものなのだ。
それは教師が道徳的に立派でなければならないということでは必ずしもなく、言うならば、教科書には生徒が内心化すべきことのすべてが書かれるというものではなく、具体的教えは教師の肉声で語られ、教科書は象徴的に書かれていなければならないということである。したがって教科書検定の場合は、教科書とともに、それにともなって事実上教科書会社で作成される教師指導書とともに検定を受けなければならないということである。
韓国の道徳教科書はその点で、重大に参考になるもので、それを紹介したものに拙著『道徳教育は韓国に学べ-道徳教育教科化への指針』(文化書房博文社 2007年)がある。これには西村茂樹の道徳論を柱とする日本弘道会の会長の鈴木勲氏の推薦の辞がある。
(すぎはら・せいしろう)