ロシア人不審死に英公聴会

中澤 孝之日本対外文化協会理事 中澤 孝之

マレー機撃墜後に発表

露の元情報部員暗殺を疑う

 英国政府は7月22日、テレサ・メイ内相の名前で議会に対する声明書簡を発表した。同声明は2006年にロンドンで起きたロシアの元FSB(連邦保安庁)職員アレクサンドル・リトビネンコの不審死に関する新たな調査方針を示したもので、英国では大きな話題となっている。

 ご記憶の読者がおられると思うが、リトビネンコは同年11月1日、自宅で体調の異常を覚え、二つの病院で治療のかいなく、3週間後の23日に息を引き取った。享年43歳。死の3時間前に特別の検査機関での尿検査により毒物は、一般の病院では発見できない放射線物質「ポロニウム210」と判明、「ロシアのスパイ暗殺される」と大きく報道された。彼自身は国家機密に触れたことはなく、実際は「スパイ」ではなかった。

 ロンドン警視庁による犯人捜しが展開され、容疑者としてリトビネンコと11月1日午後ロンドン市内のホテルで一緒にお茶を飲んだアンドレイ・ルゴボイ、ドミトリー・コフトゥンの2人が浮かび上がった。ロシア政府は憲法を盾に英側の要求する両人の引き渡しに応じていない。最有力容疑者ルゴボイの場合、不逮捕特権をもつ下院議員であるうえに、英国からモスクワに持ち込まれたウソ発見器で「完全にシロ」と出た。

 詳しい経過は省略するが、10年5月のキャメロン首相就任後、外交官追放合戦などリトビネンコ事件で冷えきっていた英ロ関係の修復が模索された。対ロ外交の円滑化のため、死因審問の場に「国益に反する(つまり対ロ外交に支障の出る)資料」を提出することに外務省と内務省が異を唱えた。

 一方、検視官サー・ロバート・オーウェンは既に昨年6月、そうした制約のもとでの事件の真相究明は不可能であるとして、死因審問を公聴会に切り替えるよう要求。ようやくメイ内相が公聴会設置を決断した。

 新たな決定がこの時期に選ばれた背景には、5日前のマレーシア航空機墜落事件でウクライナ危機をめぐる米欧とロシアとの対立がさらに激化する気配から、プーチン大統領と何回も会談して個人的に親密な関係を築いてきたキャメロン首相が、もはや対ロ関係に考慮する必要はないと判断した可能性がある(英首相報道官は、公聴会設置の公告とウクライナ危機による英ロ関係の緊張とは「全く関係ない。偶然の一致だ」と言明したが)。とりわけ、マリーナ未亡人と弁護団は、昨年9月に公聴会設置を内務省に申し入れていただけに、大歓迎の意思を表明した。

 インターネットの英内務省サイトから入手したメイ内相書簡を見ると、「05年法令に基づいて、06年11月のアレクサンドル・リトビネンコ氏の死亡を取り調べるための公聴会を開くことを政府が決めたことを公告する。公聴会は内務省が設置し、リトビネンコ氏の死に関する死因審問において現検視官である上級判事サー・ロバート・オーウェンが議長を務める」となっている。原文は〈Inquiry〉であるが、これまでのいきさつから、ほとんどの英メディアが表記している〈Public Inquiry(公聴会)〉と解して間違いないだろう。さらに内相書簡は公聴会の目的として①09年検視官・判事法令にしたがい、死者の身元および、いかにして、いつ、どこで彼が死去したのかを確認する②05年死因審問法令にしたがい、死亡の責任の所在を明らかにする③適当な勧告を行う――と書かれている。05年死因審問法令にしたがってサー・ロバート(と英メディアは呼ぶ)は、“誰に殺人の動機があったのかとか、リトビネンコ殺害の方法”に関してすでに捜査済みの見解を、英諜報(ちょうほう)係者に質(ただ)すことができるといわれる。

 一方、7月22日付「リトビネンコ死因審問」の公告をネットの死因審問事務所サイトで見ると、「アレクサンドル・リトビネンコの死に関する死因審問の正式の一時中断と公聴会の開催についてのヒアリング」を7月31日午前10時から正午まで王立裁判所第73法廷で行うと予告された。紙幅の制約で詳細な内容は割愛するが、同日のヒアリング後の発表によれば、9月5日に公聴会準備ヒアリングを開き、実体ヒアリングは来年1月に始めるという。

 公聴会には大きく分けて二つの課題がある。第一はリトビネンコの死にロシア当局が関与しているのかどうか、第二は英諜報機関が英国市民であったリトビネンコの死を防げたかどうか、である。第一の課題に関しては、サー・ロバートはすでに、ロシア政府が関与しているとの有力な証拠資料があると言明しているところから、それが提出される可能性が大きいが、その場合も、「国益に反する」との理由から非公開での提示となることもあり得るといわれる。また、第二に関しては、事前にはリトビネンコの生命に「緊急の真の危険の兆候はなかった」とするメイ内相の説明が既にあり、不問に付される可能性が大きいようだ。リトビネンコがロンドン亡命早々、MI6、MI5とつながりをもち、手当をもらっていたことも明らかになっている(未亡人の証言など)ので、英側はなるべくなら触れられたくないだろう。

 英国の多くのメディアが予測しているように、リトビネンコ“暗殺”には、ロシア当局、さらにはプーチン大統領が直接的あるいは間接的に関与していることが公聴会で明らかになるのだろうか。

(なかざわ・たかゆき)