日本外交も正念場 、ASEAN50年目の課題


yamada

 8日は、東南アジア諸国連合(ASEAN)創設記念日だった。

 ベトナム戦争たけなわの1967年、共産主義拡大のドミノ理論を心配した米国の意を受け、原参加5カ国の反共クラブとして設立された。昨年末、経済、政治・安全保障、社会・文化の各共同体を併せたASEAN共同体が発足した。しかし、そのパワーはむしろ弱まっている。

 問題は全会一致の原則だ。先月の外相会議では、カンボジアの猛抵抗で、南シナ海問題に関し、中国にとっては蚊が刺した程の弱い共同声明しか出せなかった。4年前カンボジアが議長国で、共同声明が出せなかったが、今回、状況がずっと緊迫化した中だけに、事態は一層深刻である。

 フン・セン・カンボジア政権は、対中関係を、ASEAN共同体より完全に上に置いた。元ポル・ポト虐殺政権後見人の中国への国民の恨みは、金力で封印された。

 対中関係は対日関係も圧倒した。フン・セン首相は、先月中旬のアジア欧州首脳会合(ASEM)の際の日本・カンボジア会談の報道に激怒した。自国の新聞が「安倍首相は、国際仲裁裁判所の判決は決定的で順守すべきだ、と述べた」との日本外務省の発表を基に、日本がカンボジアを非難したように報じたからである。彼は数日後、日本大使の面前で当たり散らした。「私を非難する勇気のある者などいないはずなのに」。

 全会一致原則でも、以前はよかった。ベトナム戦争は共産側が勝利したが、ドミノは杞憂(きゆう)に終わった。70年代後半~80年代のASEAN会議は、余裕ムードだった。会議の合間、スハルト、リー・クアンユー、マルコスといった大物首脳らが、ホテルのプール脇で派手なシャツを着て、踊ったり談笑したり。そのうちに、いつか全会一致になっていた。

 そして90年代、ASEANは脚光を浴びた。ASEM、ASEANプラス3(日中韓)、アジア太平洋の政治・安全保障対話の場「ASEAN地域フォーラム」(ARF)。どれもASEANがハブとなってできた。そしてベトナム、カンボジアなどが加盟し、10カ国ASEANに膨らんだ。

 だが2000年代、状況が変化する。①中国とその影響力が巨大化した。②共産主義国も加わった結果、経済格差や立場の隔たりが広がった。親中派のカンボジア、ラオスの昨年の国内総生産(GDP)合計は、インドネシアの約30分の1だ。③強力なリーダーがいなくなった。90年代、地域で最も民主的な国とされ、議論を牽引していたタイは、著しく地盤沈下した。④英国の欧州連合(EU)離脱とスケールは違うが、国益第1主義が一層強まった。域外の北朝鮮問題などに関心を持つゆとりもなくなった。

 こうした状況だから、全会一致原則では、共同体は経済以外、機能不全に陥りつつある。人権擁護など、09年にそのための委員会はできたが開店休業だ。この原則を乗り越える方策を、真剣に追求する必要がある。

 日米は今後、ASEAN全体より2国間、数カ国間でのスクラムを重視し、南シナ海の海上警備体制構築のため、フィリピン、ベトナム、インドネシアなどとの協力を一層強化すべきだろう。東シナ海の波も高い。今こそ日本の外交と安全保障戦略の正念場だ。

 大事なのは、中国の無法や不当な主張に断固屈しない姿勢を堅持し、PRし続けること。皆、日米VS中国の成り行きを見守っている。日本も譲歩すると見なされたら、ASEAN諸国の対中国綱引きも、最終的に総崩れになってしまうだろう。

(元嘉悦大学教授)