デジタル通貨から考える貨幣の本質
ここ10年ほどの間、ウェブのネットワーク上で電子的決済手段として流通しているデジタル通貨の発達には目覚ましいものがある。「Suica(スイカ)」や「PayPay(ペイペイ)」などの電子マネーはデジタル変換された支払い手段で、法定通貨を基準にしている。ビットコインやリブラなど仮想通貨(暗号資産)は法定通貨を基準としない通貨で、ウェブ上で容易に国境を越えて流通している。
さらに、先行する中国のデジタル人民元を追いかけるかたちで、アメリカや日本、欧州連合(EU)の中央銀行は、「中央銀行発行デジタル通貨」を研究中である。これは法定通貨そのものをデジタル化したもので、人民元もドルも円もユーロも、やがてデジタル化していくことになるであろう。考えてみれば、交換可能性があり、決済手段になりさえすれば、デジタル化した数字でも通貨になり得るのである。
電子データで営む金融
経済は、物と物の交換、物とサービスの交換から始まる。その交換の手段には、古来、貨幣が用いられた。しかし、貨幣は、それ自身、物や商品としてそれだけの価値があるわけではない。たとえ金銀からなる硬貨でも、金銀の含有量でその価値が決まるわけではない。含有量が少なくても、そこに百両と書いてあれば百両の値打ちがある。
だから、貨幣は、金銀に代わって紙でもよく、その紙幣が金銀に換えられなくてもよい。そこに一万円と書いてあれば一万円のものが買えるのだから、貨幣は究極のところ数量にすぎなくなる。
現代のデジタル通貨は、極端な形でそのことを明らかにしている。デジタル通貨は、単に数値化された情報にすぎない。実際、現代では、世界で流通している全貨幣の9割以上はサーバー上を動いている数字であり、電子化されてしまっている。
中央銀行が通貨供給量を増やすといっても、数字を増やしているだけである。銀行や証券会社もほとんど数字だけを動かしている。現代の金融市場は、電子データで営まれているのである。現代では、このようなデジタル化した通貨が、地球上を自由に往来している。というより、われわれの想像上の空間を移動していると言うべきかもしれない。
とすれば、貨幣は、皆がそれを貨幣だと信頼していることによってのみ貨幣だということになる。膨大な数の見知らぬ人同士でも、交易ができ、事業を興し、協力できるのは、貨幣のお陰だが、その貨幣は、皆が信頼しているものであれば何でもよい。だから、人類史上、今まで、貨幣には、石器でも黒曜石でも、貝殻でも金銀銅でも、紙でも電子データの数字でも、さまざまなものが使われてきた。貨幣を貨幣として皆が信頼し、それを承認していれば、交換経済は成り立つのである。
貨幣は、われわれが共通に持っている想像の中でしか価値を持っていない。貨幣の価値はもともと仮想的なものだったのである。貨幣による交換経済も幻想によって成り立っている。幻想がなくなれば、何の価値もなくなる。現に、この幻想はしばしば崩れ、ただの紙切れ、ただの石ころ、単なる数字にすぎなくなることもある。
特に、近代経済は信用経済であって、将来の成長と豊かさに対するわれわれの信仰によって成立している。将来への信頼が信用を発生させ、その信用でお金を借り、現在を築いていくことができるようになったのが、近代資本主義である。
貨幣は、信用が裏付けている。だから、将来への信頼がないと、近代経済は発展しない。その意味でも、経済は信頼という目に見えないものによって成り立っているのだと言わねばならない。経済も仮想現実によって成り立っているのである。
人間は幻想を追う動物
人間は、幻想を共にすることによって貨幣を生み出し、経済も営んできた。人間は幻想を追う動物である。しかも、幻想なくして生きていけない動物なのである。
(こばやし・みちのり)