大賀ハスに学ぶ教育と歴史

加藤 隆名寄市立大学教授 加藤 隆

啐啄同時の環境が必要

暗記より根拠からの出発を

 大賀ハスと呼ばれるハスの花がある。千葉市検見川にある縄文時代の落合遺跡で昭和26年に発掘された古代ハスのことである。発掘当時、翌日で打ち切りという日の夕刻になって、ボランティアの女子中学生によりハスの種3粒が発掘されたことがすべての始まりである。発掘に関わった植物学者である大賀一郎は発芽育成を府中の自宅で試み、2粒は失敗に終わったものの、最後の1粒は翌年の昭和27年7月にピンク色の大輪の花を咲かせた。実に2000年ぶりに目覚めて開花したのである。

 このニュースは国内外に報道され、米国ライフ週刊版では「世界最古の花・生命の復活」として掲載されている。以来、我々は大賀ハスと名付けられた古代ハスの薄紅色の優美な姿を、府中市郷土の森公園修景池などで眺めることができる。この大賀ハスの事実から、二つのことを考えてみたい。

 一つめは大賀ハスの事実から学ぶ教育の在り方である。我々は発芽の3条件として学んできたが、植物の種はどんな環境でも簡単に発芽するような愚かなことはしない。水・空気・適度な温度がその環境になければ決して発芽しないのである。この条件の一つでも欠けていると、大賀ハスのように種は何百年も何千年も発芽の条件が整うまでじっと待ち続ける。やがて、機会が到来して水と空気と温度の環境を得たとき、一気にハスの生命はこの世界への顕現が許されるのである。

 このように、条件が満たされることによって発芽し開花する植物のダイナミズムに重なるのが、教育の世界で語られる啐啄同時(そったくどうじ)という真実である。卵の中の雛が殻を破って生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がつつくことを「啐」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をつつくことを「啄」という。早くてもいけない、遅くてもいけない、まことに大事な一瞬であり、啐啄は同時でなくてはならないという教えである。

 学校教育において、学ぶ子ども(雛)と教える教師(親鳥)の啐啄が同時でなければ、そこに教育成果も自己肯定の涵養も期待できはしない。しかしながら、今日の日本の教育事情をみるとき、あまりにも親鳥側(保護者、教師、教育行政など)のタイミングを逸した「啄」活動が目につかないだろうか。一例を挙げれば、保育園の待機児童の解消のために自治体も保護者も血眼になっている。その多くは、民間企業も参入して保育事業の展開という時流になっている。この例を見ただけでも、現代教育の問題の背後に、人間成長の論理が経済獲得の論理にすり替わっている弊害を見るのである。そこには、子どもの思いや願いに寄り添うこと、つまり、「啐」へのまなざしはない。

 二つめは、大賀ハスの事実から学ぶ歴史の在り方である。新約聖書に「時は満ちた。神の国は近づいた」という有名な言葉がある。この時代に使われていたギリシャ語の「時」には、二つの言葉が用いられている。一つは、「クロノス(chronos)」であり、我々が一般的に理解する「定量的な連続して流れる時」を意味する。もう一つは、「カイロス(kairos)」である。先に触れた聖書の「時は満ちた」は、この「カイロス」が用いられている。ギリシャ語のカイローとは「切り裂く」という意味であり、いわば、カイロスとは、流れる時間とはまったく別次元の「時」であり、豁然と歴史を切り裂いて、ある出来事が起きる「時」を意味している。

 大賀ハスに引き寄せて言うならば、2000年間もの長きにわたってという時間はクロノスであり、博士の機を得て想像もできない美しい姿に変貌したという時間はカイロスである。或いは、札幌農学校のクラークは、わずか8カ月しか札幌に滞在しなかったという時間はクロノスであり、内村や新渡戸など多くの若者の魂に深く切り込み、今なお人々にパッションを与えているという時間はカイロスであろう。

 さて、我々は底の浅い皮相的歴史認識から脱皮しなくてはいけないのではないだろうか。多くの学生が苦々しく回想して、歴史は単なる暗記の学習だったというような歴史の捉え方からの方向転換が求められていないだろうか。種が地中深く、誰からも気づかれずにいても、種自身はどこかのタイミングで発芽して美しい花を咲かせる事実を既に内包しているのだ。

 同様の真実は、歴史についても言えるのである。西洋思想の底流をなすヘブライ語の最大の特徴は、過去形や未来形などの時制がなく、完成形と未完成形だけがあることに示されている。神にとっては、すべては、すでに完了したという歴史認識が、ヘブライ人の生き方の根幹を貫いている。あとは、時代のクロノスのどこで可視的に表れるかだけの話なのである。このような歴史や時間に対する捉え方は、アウグスティヌスの「時間の秩序」やヘーゲルの「絶対精神」に受け継がれ、西洋思想の根幹をなしている。このように、川の流れのような感覚で歴史を捉えるのではなく、歴史の根拠地から出発せよということを、あの大賀ハスの種の事実から学ぶのである。

 思うに、我々の内側にも幾多の大賀ハスの種が出現の時を待っているのかもしれない。そして、機を得て人生時間を切り裂くように発芽し、美しい花を咲かせるだろうと想像するだけで前向きになれるのではないだろうか。

(かとう・たかし)