露大統領を咎めた英公聴会

中澤 孝之日本対外文化協会理事 中澤 孝之

リトビネンコ氏暗殺で

「指示」を推測した議長見解

 元ロシア連邦保安庁(FSB)要員、リトビネンコの暗殺事件に関する「リトビネンコ公聴会」議長サー・ロバート(・オーウェン)判事の報告書が1月21日にロンドンで公表された。筆者は2006年11月1日以来この事件に注目し、死因審問および公聴会設置とその合計34日の公開ヒアリング(証人は62人)などを追い続けた。発表当日、公聴会事務局からA4版328㌻の報告書をダウンロードし印刷した。22日の主要邦字紙朝刊は報告書発表を伝えた。

 報告書の本編は第1部から第10部まである。第1部「序文」は、サー・ロバート判事が14年7月にメイ内相から公聴会の議長に任命され、昨年7月まで公開あるいは非公開のヒアリングが断片的に行われたことが記されている。

 「序文」で注目されるのは、その最後に、「(本報告書の)結論は私が出したものであり(mine)、私だけのもの(mine alone)である」と書かれている点だ。サー・ロバート議長はあくまで議長個人の所感、総括であると強調しているのである。したがって、「委員会報告書」との紹介は誤りだ。そもそも本邦のメディアの多くが〈Public Inquiry〉を「独立調査委員会」と意訳し、サー・ロバート判事の肩書〈Chairman〉(議長)を「委員長」としているのはおかしい。報告書には〈Committee〉という表現はどこにもなく、委員会を構成するはずの「委員」の肩書をもつ人名も見当たらないのである。

 第2部「イントロダクション」では、ヒアリングは公開と非公開の双方が実施されたこと、容疑者のアンドレイ・ルゴボイ(元FSB要員で現在、下院議員)とドミトリー・コフトゥン(元軍人で現在、実業家)はモスクワにいて、公聴会に出席しなかったが、事実認定には障害とならなかったことなどが述べられ、最後に、「私には誰に対しても民事、刑事責任を決める権限はないし、そういうことはしなかった」と結んだ。公聴会は裁判ではなく、その性格上、当然とはいえ、容疑者や犯人を糾弾、断罪したりする権限は議長にないことが明確にされた。

 第3部「アレクサンドル・リトビネンコ―ロシアと英国での彼の生活、病気と死」から第7部「非公開証拠」までは、それぞれいくつかの章に分かれ、非常に詳細な記述なので、紙幅の都合から省略するが、「死亡の責任に関する事実認定」とのタイトルによって、サー・ロバート議長が「序文」で、報告書の結論と位置付けているのが、第8部「誰がアレクサンドル・リトビネンコを殺したか?」、第9部「誰が殺害を指示したのか?」および第10部「結論の要約」の3部である。

 第8部で興味あるのは、リトビネンコが生前、ポロニウム210を含む毒物や武器の密輸に関与していたとの証言があったことから、その関連で、ポロニウムを自ら所持し、処理を誤って服毒したとか、自殺のために服毒したといった説が流れたことが紹介された。サー・ロバート議長はこうした説には裏付ける証拠はないとして退けた。また、英国からモスクワに持ち込まれたウソ発見器でルゴボイの反応が白と出たこと(ルゴボイ自身、犯行と無縁と主張する根拠の一つ)についても言及したが、正確さに欠けていると一蹴。そのうえで、数々の証言から「ルゴボイとコフトゥンは実行犯である」と断定した。

 第9部では、リトビネンコ殺害を指示した疑いのあるものとして、英国情報機関、ボリス・ベレゾフスキー(エリツィン時代のオリガルヒ[新興財閥]の一人で、自身も英国に亡命して、リトビネンコ一家の財政的な後見人だった)、犯罪組織、マリオ・スカラメラ、(リトビネンコが発症した当日の午後3時過ぎ、日本レストラン「イツ」で一緒に会食したイタリア人)やチェチェン・グループ、そして「ロシア国家の責任」の章に分けて、動機などを詳しく検証。最後の章以外は証拠なしとして否定したが、肝心のポロニウム210抽出原子炉の場所について、2人の専門家の対立する証言を引いて、「リトビネンコを殺害したポロニウム210は、ロシア以外のどこかで生産された可能性も否定できない」としながらも、「多分ロシアから来た、あるいはロシアから来たに違いない」と曖昧な表現で記述している。つまり、ロシアの原子炉によって生産されたと断定できる確証はないことを認めたことも注目点だ。

  第10部の結論には、「ルゴボイ氏がリトビネンコ氏に毒を盛ったのは、たぶんFSBの指示でそれをしたのだろう。付け加えたいが、そのように私は強く確信する。私はコフトゥン氏も毒殺に参加したことを知った。したがって、私は、彼もまた、ルゴボイ氏を通して間接的に、そして、たぶん自分の知識もあって、FSBの指示で行動したと結論付ける」「リトビネンコ氏殺害のFSB作戦は、たぶんパトルシェフ氏(筆者注・当時のFSB長官)、そしてまた、プーチン大統領によって承認された」と書かれている。

 この報告書に対してロシア側からは、断片的にラブロフ外相、大統領報道官、駐英大使などの反発や非難の声が伝えられたものの、2月2日現在、公式の反論はないが、「たぶん」や「推測」「違いない」といった言葉の多用を指摘して、殺害動機、エビデンスの薄弱さを突いてくるものと思われる。(敬称略)

(なかざわ・たかゆき)