椰子の実の故郷に憂いあり

金子 民雄歴史家 金子 民雄

南シナ海の自由を守れ

中国の状況次第では難民も

 最近の世の中は、なにか日々殺伐としていて明るいことがない。朝のニュースを聞いたり見たりしても、暗い気持ちに襲われることばかり。そんなときふと、もう数十年も昔の幼少年期の頃のことを思うと、むしろいまほど気の重くなることは少なかったように思う。なぜなのか理由は分からないのだが、夢や希望がいまよりずっとあったのではないだろうか。

 そんな中で、寒い季節を迎えるころになると、きまって思い出すことがある。それは1年中を通して暖かい南の国のことだった。薪や炭火しか暖房装置のない当時、身体を暖め癒やしてくれるものは、暖かな気候しかなかった。そんな黴(かび)くさい思いに耽(ふけ)っていたとき、ふと周囲にいた若い世代、といっても、もう三、四十代の仲間たちに椰子(やし)の実の話をしたところ、まるっきり感情を表さなかった。そこでヤシの実について尋ねたところ知らないという。さらにこちらを驚かせたことは、島崎藤村が明治のころに詠んだ「椰子の実」という詩も唄も知らないということだった。これでは話のあとが続かない。

 太平洋戦争が勃発する前、銀行員としてジャワ島に赴任した伯父が、ヤシの実で作った容器を送ってくれた。話では聞いて知っていたが、実物を見たのは初めてだった。これが藤村の詩の椰子の実だったのである。この詩の第一節に、「名も知らぬ遠き島より、流れ寄る椰子の実一つ」とあり、幼心にもこれに大変強烈な印象を受けていた。このあと「故郷(ふるさと)の岸を離れて、汝(なれ)はそも波に幾月」と続く。どうやら子供にも海辺で育ったヤシの木の実が海に落ち、波にもまれながら幾月も漂ったものと想像がついた。

 たしかに空想なら十分だが、これを現実のことと信じてよいのだろうか。そしていつか戦争も終わり、時代は昭和20年代に入り、私も中学生になっていた。この頃、兄は旧制の高校生だったが、たまたま東京で開かれた講演会に行くと、民俗学者の柳田国男が「椰子の実」の由来を語ったのだという。これが一般に公開した初めてのことだったという。

 帰ってきてから兄はこの話を聞かせてくれたが、柳田翁は明治の頃、たまたま伊勢の志摩半島に遊んだとき、海岸に漂い着いたヤシの実を拾ったのだという。このことを知人の島崎藤村に語ると、藤村が欲しいというのであげたのだという。この事と次第を知った藤村は想像を重ねて、この14行足らずの短い詩を作ったのだという。なぜか藤村はこの詩の由来を語らず、柳田翁は藤村の没後に初めて真実を明かしたのだという。人によってはこんなことなんとも感じないだろうが、私には大変なショックだった。自分の勝手に空想していたことが、実は事実だったからだ。

 ヤシの実が日本に漂着したのは、決してこれ一つではなく、過去に幾つもの例が記録されていたという。しかも太平洋岸ばかりでなく、驚いたことには日本海岸沿いにも流れ着いていたという。ではこのヤシの実の故郷はどこだったのだろうか。一族の樹木はいまも残っているだろうか。藤村がふと思いつくままに詠んだ「実をとりて胸にあつれば、新(あらた)なり流離の憂(うれい)」とは、じつにいまも生きている。

 椰子の実の故郷に近かったにちがいない南シナ海の南沙諸島一帯はいま大きな事件に巻き込まれ始めている。中国による大規模な海上埋め立て工事である。海中に沈んでいる土地を勝手に領有化する権利はないのだが、これを埋め立てて人工島にし、これに領有権を主張する。こんな理不尽な考えは、せいぜい中国側の誇大妄想的なものと考えられていたのだったが、この数年間予想以上にスピード・アップし、新しく年が替わり2016年に入ると、海上に人工島が姿を見せ始め、さらに航空路も完成したという。

 南シナ海のスプラトリー諸島には、七つほどの岩礁があり、勿論、これらは海上に姿はのぞかせていなかった。ただこの東西両端にはフィリッピンとヴェトナムが接し、中国が勝手に権利を独占できる地域ではない。しかも石油ガスなど天然資源が埋蔵されているので、うっかり領有権を他国に認めるわけにいかない。ヤシの実が誰にも気兼ねすることもなく自由勝手に流れるように、自由航行はできなくなる。

 さて、ここでさらに厄介なことが起こり始めた。中国経済の予想以上の悪化である。いま本屋の店頭には中国関係の本が山積みされている。中国問題の専門家やヤジ馬的評論者たちが、中国崩壊の予測を捲(まく)し立てている。ならば本当に危ないのか。こんな予測は誰にもできるが、だれにも分からない。問題は、もしも経済の破滅、国家存亡に直面したとき、ヤシの実ならぬ頭に毛の生えた難実ならぬ難民が、数百万・数千万押し寄せてこないことを願うばかりである。

 実際、難民漂着の例はあった。インドシナ難民である。ボートピープルとも呼ばれ、ベトナム戦争後の70年代から80年代にかけて多くは南シナ海を漂流し、たくさんの命が海の藻屑と消えた。大海原を漂う小舟は椰子の実のように黒潮に流されて北上し、日本にも何十隻かが難民を乗せて漂着したのだ。

(かねこ・たみお)