民主派ネムツォフ氏の暗殺

中澤 孝之日本対外文化協会理事 中澤 孝之

迷宮入り事件の可能性

夢見た露の「オレンジ革命」

 ロシアの反プーチン政治家ボリス・ネムツォフ(55)が2月27日夜、クレムリン近くで何者かに暗殺されて1カ月が過ぎた。犯行そのものは「よく練られた計画性はなく、アマチュアの仕業のようだ」(英国際情勢分析専門家)との見方があり、警察当局も「(弾道鑑定や現場に残された薬莢(やっきょう)によって)銃弾が古くふぞろい(1986年製と92年製)であり、自家製の銃が使用された可能性からも、プロの犯行ではない」と推測した。

 チェチェン人の容疑者5人が捕まり、うち2人は実行犯と見られた。有力容疑者はいったん犯行を自供したが、収監先のモスクワ「レフォルトボ」刑務所に面会にきた人権問題グループに無実を訴えた。弁護士によると、彼にはアリバイがあるという。黒幕や動機の究明は困難で、迷宮入りの可能性が大きい。

 本稿ではネムツォフの実像に迫るため、いくつかのあまり知られざるエピソードを紹介したい。第一に、彼はゴルバチョフ・ソ連時代の末期からエリツィン時代の91~97年ニジニ・ノブゴロド州知事を務めた。その後、第1副首相や燃料エネルギー相としてエリツィン政権に加わり、中央政界で活躍した「改革派政治家」の有望株だった。一時、将来の有力大統領候補ともいわれた。99年11月に彼は大統領の地位にふさわしい最も価値ある大統領選候補者としてプーチンを応援したが、のちに後悔し、2000年3月の選挙ではプーチンに投票しなかったという。

 第二に、オリガルヒ(新興財閥)とのビジネスのつながりを利用して、彼は有数の資産家にのし上がった。09年3月、ネムツォフは生まれ故郷のソチ市の市長選挙に立候補し、惨敗したが、当時、ソチ市選挙管理委員会に登録された資料によれば、08年のネムツォフの総収入は、1億8340万ルーブル(当時の換算で700万㌦強)、銀行預金は9320万ルーブル。収入源は、主に米国に資金援助で運営されている「市民社会支援基金」や「社会プログラム基金」、さらにはオリガルヒ系民間銀行「アリファ・バンク」からの配当金や有価証券の売買利益など、であった。

 第三に、プーチン政権誕生後は、野党政治家として活動。その中で特にネムツォフは欧米との強い結び付きをもった。彼が全米民主主義基金(NED)を通じて米国務省から財政的支援を受けていたことは知られている。また、ネムツォフは仲間とともに09年7月、オバマ大統領をホワイトハウスに訪ね、反プーチン戦略(レジーム・チェンジ)を検討したという。彼はまた10年1月、当時の駐露米大使ジョン・ベイルを大使館に訪問している。ウィキリークスで明かされたこのときの彼らのコードネームは「モスクワ000305」。ベイルによれば、ネムツォフはオレンジ革命のお陰で民主主義と幸福を手に入れたとして、ウクライナをうらやんでおり、同じことを自分たちも出来ればいいがと述べ、「プーチン排除を、そしてファシスト独裁に代わるロシアの民主主義を夢見ていた」という。さらに、ネムツォフは12年1月着任したばかりの新駐露米大使マイケル・マクフォールを、その3日後に表敬訪問した親米・反プーチン派のリーダーたちの一人として加わっていた。

 ギリシャの軍事専門家イリアス・イリョポウロスによれば、「我々が知っている限りでは、マクフォールは特別な任務をもっていた。つまり、セルビア、グルジア、リビアなどで見られたタイプにのっとって、今度はロシアで『オレンジ革命』型のシナリオを計画し、調整し、実行することだった。選挙で選ばれたロシア指導部を転覆するため」という。

 第四に、最近の世論調査では86%の支持率を誇るプーチン大統領に比べて、ネムツォフ個人の人気度はわずか1%程度(彼が共同議長を務めたロシア共和党・国民自由党は5%弱)しかなく、彼は完全に「過去の人間」だった。

 第五に、別居中だったライサ夫人との間に、ニューヨーク留学経験があって市民活動家で、株式市場解説者、モスクワの経済問題TVチャンネルの経済コメンテーターとして活躍中のジャンナ・ネムツォワ(30。信心深いイスラム教徒ともいわれる)がいるが、その他にも、長年付き合いのあるジャーナリスト、エカチェリーナ・オジンツォワとの間に息子アントン(95年生まれ)、娘ジーナ(02年生まれ)の2人の子供、さらには、以前ロシア大統領府で働いていた自分の秘書イリーナ・コロリョワとの間に娘ソフィア(04年生まれ)がおり、結局、分かっているだけで、彼は3人の女性に合計4人の子供を残した。

 第六にネムツォフと日本との関係。エリツィンが橋本龍太郎首相(当時)に北方領土(クリール諸島)を日本にプレゼントする考えであることを知った彼は、阻止するためにエリツィンを強く説得し、クリールを残すとの約束を取り付けた裏話を自ら披露した。ネムツォフと生前会ったことのある元外交官で作家のM・Sは、これを虚偽宣伝と決めつけ、「彼は権力亡者で、しかも平気でウソをつく。(中略)エリツィン時代には、表の世界に出てきてはいけないはずの人物が、はったりと利権追求の巧みさで公職に就いていた。彼もそのような人物の一人だった。彼の死によって、日露関係の混乱要因の一つが除去された」(週刊S誌)と手厳しい。(敬称略)

(なかざわ・たかゆき)