終戦70年を巡る報道に思う
頼りない「悲惨」一辺倒
如何に復興したかを伝えよ
終戦70年の今年、先の戦争に関する多くの報道がなされている。いずれも戦争の被害が如何に大きなものであったかを生存者の証言を加え、二度と起こしてはいけないと訴える態度であり、誠に結構な事と考えている。しかし、後期高齢者になった筆者は、最近、報道している皆さんにやや頼りなさに似た感じを持つようになってきた。それは、報道する人達が、経済成長・豊穣(ほうじょう)の時代に育って、戦争とはやってはいけない悲惨なものという通常の社会心理を根拠とし、戦争の実体験がないことによるものと考えている。
筆者は昭和20年4月、「学童疎開」が行われようとする時、神戸から愛知県の中都市の母親の故郷へ疎開した。一家をあげての引っ越しである。小学校2年生の転校は大変で、言葉の違い・いじめなど通り一遍の「子供の苦労」を味わったが、馴染む間もなく6月19日この街はB29の夜間空襲で大被害を受ける。
その夜は叩き起こされ、「街が燃えているので、郊外の母親の実家まで避難する」と告げられる。事情も解らぬまま、筆者は父親に、2歳上の兄は母親に手を引かれ家を出る。予め準備していた小型の皮のトランク2個を両親が肩からバンドで吊るしている他は何も持ち出せない状況だった。郊外に通ずる街道は避難民の洪水、暗闇の中、黙々と人波が続いた。父親との手が離れたら混雑に埋没するであろうことは理解でき、必死にしがみ付いていた。途中で自暴自棄になる人や、子供とはぐれ半狂乱になった人を見ながら、長蛇の列は、押し合いへし合いのろのろと進んだ。最後は非常持ち出しのトランクまで投げ捨てて、身一つで実家に到着した。
約3㌔、数時間の恐ろしい逃避行だった。二度と味わいたくない戦災ならではの経験である。父親が実家の伯父に、現金・貴重品・通帳はじめ一切の財産まで投棄してきたことを報告。二人で男らしく「身軽になったが、無事で何より」と笑っていたのが印象深かった。以降1年半、手厚い庇護(ひご)の下、田舎生活を満喫し、神戸に帰るが、こちらの家も焼失、ダブルパンチの状態で文字通り斜陽族、タケノコ生活を味わった。
今風の報道姿勢からみると、哀れをとどめる年齢・境遇・体験であったと見えるが、実はそうではない。筆者はこの1年半の体験が、その後の人生に測り知れない大きな恩恵を与えてくれたものと今でも感慨に身を委ねている。おそらくは、この体験無くしては、人生もっと浅薄なものに推移したのではないかと考えている。
恩恵の最たるものを紹介する。最初の感動は、先述した避難経路で投棄した非常持ち出しのトランクが、翌日騒ぎも収まらぬうちに畑の地主と駐在さんがリヤカーに載せて届けてくれたのである。皮トランクに外国ホテルのレッテルがべたべた貼ってある珍しい物、村長さんの所へ避難してきたハイカラさんの物に違いないという判断だったようである。なんと言う親切なそして純朴な雰囲気であることか。避難民が最後まで持っていたものは貴重品、返ってこなくて当たり前ではないか。都会育ちの父は感動を隠さなかった。子供の我々にも深く心に残った。
この「地方の人達への信頼感」は、長ずるに及び地方勤務をする上で、基本心情として大いに役立ったと考えている。その後、田園環境での1年半、いたずら悪童の限りを尽くした生活のなかで、田植えから収穫に至る農村の田畑作業を旧農地制度の最後の年、たっぷりと味わった。地域に伝わる伝統の夏祭り、秋祭りも素晴らしく忘れられない体験であった。秋祭りの神楽では、伯父の尽力で兄は「お稚児さん」、小生は「大太鼓」を演じたが、毎夜お宮に集まって受けた特訓が懐かしい。
さらに有難いのは、夏は一日中裸で川遊び、泥鰌(どじょう)獲り、食用カエルを求めて夜な夜な出撃といった地方ならではの生活を通じ、人一倍強い身体と、よそ者扱いを克服する精神力を与えられたことである。二度の夏の特訓で何回も溺れながら、腕白の中でも人後におちぬ泳ぎ手になったこともあり、中学・高校と水泳部生活に現を抜かすことになったが、これも「疎開生活」の恩恵と言えるだろう。
昭和21年春、本家の従姉が結婚した。婿殿は、学徒出陣・飛行機乗りという最も犠牲の大きかった期の生き残り。子供心に映った婿殿は、白皙(はくせき)長身、挙措の格好良いことこの上もない。「お義兄さん、お義兄さん」とへばりついたが、筆者のその後の進路に影響した憧憬(しょうけい)は否定できない。
こうしてみると、戦争を通じ随分ひどい目に遭い、現代の人達から見ると、哀れな境遇に置かれた典型であった過去であるが、実は逆境に落ちたがゆえに、それなりの貴重な体験をし、その後の人間としての成長に十分の対価を頂いたというのが、筆者の率直な所見である。人間如何なる試練に遭おうとも、如何に教訓を得ていくかが最も大切で、その後の人生を左右する。
この様な目で見ると、終戦70年に関する報道について、「悲惨・逆境」と言った通り一遍の姿勢のみではなく、「破綻」「無残」の状況から人々は何を得て、如何に復興していったかという、将来につながる側面を持ってほしいと考えている。実はその姿勢が、現在の東北大震災からの復興についても、良い影響を与えるものと考えている。
(すぎやま・しげる)