英砲艦外交の導き役
獨協大学教授 佐藤 唯行
英首相在任中、薩英戦争、下関戦争で砲艦外交を展開し、日本とも因縁浅からぬパーマストン。外相時代その予行演習をギリシャで行った際、導き役を務めたのがアテネ在住のユダヤ商人、ドン・パシフィコだった。
パシフィコ邸焼き打ち
1847年4月、パシフィコの家が地元警官に扇動された暴徒に焼き打ちにされたことが事件の発端となった。賠償を求めギリシャの裁判所に訴えたが埒(らち)が明かない。やむなく英国大使館を通じ英外務省に助けを求めたのだ。英領ジブラルタル生まれの彼は、英臣民としての権利を主張できたからだ。
独立して日も浅いギリシャでは、トルコ支配下で優遇されたユダヤ商人への反感が強かった。ギリシャ正教世界で長年続く宗教的反ユダヤ主義は、商業上の競合によっても増幅されていたのだ。今回の暴動の契機は、復活祭恒例の行事が当局の命令により一方的に禁止されたことに端を発していた。
それは「イスカリオテのユダ」の張りぼてを燃やし気勢を上げる民衆騒擾(そうじょう)だった。「キリストを裏切ったユダ」を「ユダヤ人の象徴」に仕立て火焙(ひあぶ)りすることで、反ユダヤ感情を発散していたのだ。西欧では禁止されて久しかったが、偏見が一層根強いギリシャ正教世界では、恒例の行事として続けられていたのだ。
今回に限り禁止された訳は、ギリシャ政府への貸付金返済を求める仏ロスチャイルド男爵が滞在中であり、男爵の機嫌を損なわぬようにとの配慮だった。鬱憤(うっぷん)晴らしの場を奪われ憤懣(ふんまん)やる方ない民衆は暴徒と化し、有力ユダヤ商人パシフィコの邸宅を襲ったというわけだ。
救援を求められた英外務省だが、以前よりギリシャ政府の態度に業を煮やしていたのだ。トルコ帝国からの独立に力を貸した英国は、英国流の立憲君主制を根付かせようとしたが、擁立時に少年だったギリシャ国王が長ずるに及び、立憲制を蔑(ないがし)ろにし始めたからだ。それ故、パシフィコ事件はギリシャ懲罰の恰好(かっこう)の口実を与えたのである。
不毛な交渉が続いた後、誠意無きギリシャ政府に賠償を払わすため、英外相パーマストンは艦隊を派遣。ギリシャ国王が最後通牒(つうちょう)を拒否するや、同国船舶200隻を拿捕(だほ)。英海兵隊を上陸させ、王宮まで進軍させたのだ。キリスト教国を相手取ったユダヤ教徒の民間人による賠償請求を支援するため、英政府が艦隊を派遣し、相手国の喉元(のどもと)を締め上げたのだ。
これは欧州史上、前代未聞であり、一大センセーションを引き起こした。ギリシャ政府が賠償金支払いに同意したことは言うまでもないが、これで終わりではなかった。同じく東地中海に触手を伸ばしていた仏露は、英国が単独で海上封鎖権限を行使したことを許さず、関係が悪化したのだ。
パーマストンの政敵たちは「ケチな金貸しのために列強との関係を危うくさせた」と責め立て、辞任を迫った。首相は政敵との討論対決の場を下院で与えることで恩情を示した。「粉飾されたパシフィコの財産目録は嘘(うそ)八百で、パーマストンは取り込み詐欺に加担した」という非難に対し、英議会史に残る感動的な演説で応酬したのだ。
「パシフィコの申し立てが真実か嘘か私は知らない。…しかし英臣民はいずこの国に在ろうが自国の強力な腕(かいな)により不正から保護されるのだ。ユダヤ教徒だからといって悪巧みの標的にされてもよいという悪弊を私は容赦しないのだ」
起死回生の名演説により下院での信任決議を勝ち取ったパーマストンは稀(まれ)にみる雄弁家として名声を博し、首相への道を確かなものとしたのだ。
初期の経済的帝国主義
彼が仏露との関係を危うくさせてまでパシフィコを守り抜こうとしたのは、英ロスチャイルド家の意向を慮(おもんぱか)ってのことだろう。ウィーン会議以後、同家は迫害にさらされている諸外国のユダヤの人権を擁護する守護者として、積極的に振る舞い始めていたからだ。それ故、パーマストンと彼の政権は、苦難に見舞われた在外ユダヤ人の救援劇を演じて見せる必要があったというわけだ。同時にそれは19世紀後半に本格化する経済的帝国主義の初期の表明事例でもあったのだ。
(さとう・ただゆき)






