英国ユダヤ史の魅力

獨協大学教授 佐藤 唯行

世界の英植民地に雄飛
活躍生んだ寛容な社会風土

佐藤 唯行

獨協大学教授 佐藤 唯行

 ユダヤ史を学んで46年。さまざまな国を舞台に執筆を続けてきた。その結果、英国が一番面白いことが分かった。ご理解いただくため、まずは合衆国と比べよう。合衆国は世界最大規模のユダヤ居住国で各界での活躍も目覚ましい。トランプ政権の中枢にも食い込んでいるほどだ。けれどその歴史は250年、中世・近世が欠落しているのだ。歴史趣味とロマンを堪能したい読者には物足りぬ国なのだ。

複雑な中世フランス史

 次はドイツ・東欧諸国との比較だ。英国と同じく中世以来の長い歴史を持つユダヤ社会だが、ホロコーストの災禍の中で灰燼(かいじん)に帰してしまった点が惜しまれる。戦後再建されたユダヤ社会は旧ソ連出身者が人工的につくり上げたもので、戦前まで栄えていた豊穣(ほうじょう)なユダヤ文化の伝統は完全に途絶え、現状は文化的にも経済的にも「取るに足らぬ」存在となってしまったのだ。

 ロシアにも長い歴史を持つユダヤ社会が存在したが、旧ソ連崩壊の混乱の中で、世界第3位、260万人を誇ったユダヤ人口は大半が海外に流出してしまった。

 さらに言えばこれらの国々には近代英国ユダヤ社会を特徴付けたグローバル進出のダイナミズムが欠落しているのだ。大英帝国形成過程において英国ユダヤ人は多数派英国人と同様に狭い英国を飛び出し世界各地の英領植民地に雄飛し、緊密な同族ネットワークを構築してきた。これが英国ユダヤ史を面白くしているのだ。独・露・東欧のユダヤ史には垣間見ることのできぬ魅力と言えよう。

 本国と植民地間に張り巡らされたユダヤ・ネットワークの存在という点ではスペイン・ポルトガルも英国と同じだ。けれど両国には近代以後「見るべきユダヤ社会」は存在しない。長い経済停滞と独裁政権を嫌い出国してしまったからだ。

 これまで指摘した「面白さの条件」を英国と同様満たしているのはフランスだ。中世前期まで遡(さかのぼ)る仏ユダヤ史は英国のそれを上回る長い歴史だ。しかし難点がある。千年に及ぶ中世史が複雑で分かりにくいのだ。国王による一元的支配下に置かれた英国と異なり、国王を凌駕(りょうが)する大諸侯勢力が各地に跋扈(ばっこ)した中世フランスでは、ユダヤ人の中には大諸侯の支配に服する者も大勢おり、彼らが置かれた状況は地方ごとに多様だったからだ。ユダヤ人が国王直属の金貸し集団として国王政府の部局、ユダヤ人財務府により統制されていた中世英国の分かりやすい歴史像をフランスで描くことはできないのだ。

 次に近世・近代だが、英国と比べ差別がかなり強かったフランスでは、ユダヤエリートが活躍できる場が限られていた点が特色と言える。ユダヤエリートが著名なキリスト教徒と協力し偉業を成し遂げる事例は英国に比べ少ないのだ。カトリックの国フランスと異なり、プロテスタントの国英国には宗教的理由でユダヤ・イスラエルを支持するキリスト教シオニストが400年近く勢力を保ち続けているからだ。クロムウェル、ロイド=ジョージ、バルフォアはその代表だ。

 また宗教的信念からではないが、ユダヤ人と深く結び付いた有力政治家・軍人も珍しくない。ネルソン提督、チャーチル、サッチャーがその典型だ。いずれも高校世界史に登場するほどの有名人だが、フランス史の中で彼らに相当する「ユダヤの友」は見当たらない。

スエズ運河買収に成功

 最後に英国ユダヤ系自身が世界史の流れに大きな影響を及ぼした事件を紹介しよう。1875年のスエズ運河買収だ。破産に瀕したエジプトが売りに出したスエズ運河を、宿敵フランスに奪われる前に首相ディズレーリがひそかに交渉を進め、盟友ロスチャイルドが短期間に巨額の資金を調達し買収を成功させ国益を守った一件だ(ディズレーリは立身のためキリスト教に改宗したとはいえ、終生旺盛なユダヤ人意識を持ち続けた男だ)。

 これにより英国のアジア進出が加速されたのだ。匹敵する事例を仏ユダヤ史の中に見いだすことはできない。近世以後の英国が差別が少ない寛容な社会風土であったからこそ、他国に勝るユダヤの活躍を生み出し、それこそが英国ユダヤ史の尽きせぬ魅力となっているのだ。

(さとう・ただゆき)