チャーチルのシオニズム

獨協大学教授 佐藤 唯行

社会主義に対する解毒剤
ユダヤ人問題の別の解決策に

佐藤 唯行

獨協大学教授 佐藤 唯行

 英国の政治家の中でチャーチルほどシオニズムを一貫して支持した者はいなかった。植民相在任中には、パレスチナのユダヤ人入植地で電化を中心とするインフラ整備に尽力した。

 またアラブ側の悪感情を宥(なだ)めるため人数を制限しながらも、ユダヤ移民の受け入れそのものを継続させた点は重要だ。1922年発表の「チャーチル白書」では「その条文は変更してはならぬ」とバルフォア宣言の内容を再確認している。バルフォア宣言とは英政府によるシオニズム公式支持を世界に発表した文書で、条文作成者はチャーチルの盟友でユダヤ出自の保守党議員アメリーだった。首相在任中の40年代初めには、将来の分割が予定されているパレスチナのユダヤ領に広大なネゲブ砂漠を含めるよう主張した。南方の脅威エジプトに対する安全保障上の配慮であった。

ユダヤ富豪が政治資金

 彼がシオニズムへ肩入れした理由として最も人口に膾炙(かいしゃ)した説は「中東における勢力拡大の先兵としてシオニストを利用しようとする英帝国主義の利害」説だが、本稿ではこれを省き、一般に知られていない説を次に紹介しよう。

 第一は宗教的理由で、イスラエル建国を応援するキリスト教福音派の影響だ。これはロイド・ジョージとバルフォアに当てはまる。両者は幼少期から福音派の影響を強く受けてきたのだ。ちなみにバルフォア宣言は、この二人が首相・外相となったタイミングを捉え、シオニスト指導部が承認を求め提出したものであった。チャーチルも閣僚の一員として承認する側に回ったが、彼はそれほど福音派の影響を受けていなかったのだ。

 次にユダヤ富豪からの政治資金提供が心を動かしたという言説だが、これは信憑(しんぴょう)度が高い。英ユダヤ史のルビンスティン教授は、シオニスト富豪ウェリー・コーヘンの資金援助がなければチャーチルは40年に首相になれなかった、と述べているからだ。

 若手議員時代、マンチェスターを選挙区として当選した頃、培われた交友関係も無視できない。英国第二のユダヤ社会を擁する同市は当時、英国シオニズムの中心地だった。後に初代イスラエル大統領となるヴァイツマンが同市の大学に職を得た関係で活動拠点となったのだ。チャーチルとの出会いは05年、露国のユダヤ迫害への抗議集会だった。意気投合した二人の交友は終生続き、ヴァイツマンはチャーチルを親イスラエルへ誘導し続けたのだ。

 シオニズムに肩入れした恐らく最大の理由は、社会主義に対する解毒剤に使えると考えたからだ。チャーチルはロシア革命とそれに触発された英労働党の躍進を西欧文明と民主主義に対する深刻な脅威と見なしていた。ロシア革命で重要な役割を果たしている東欧系ユダヤ人。彼らは英国にも大挙来住して労働党躍進の先兵となっている。彼らが社会主義に傾倒したのは所謂(いわゆる)ユダヤ人問題(貧しいユダヤ人への差別・搾取)を解決するための有効な手段と考えたからだ。

 だとすれば彼らを別の解決策(パレスチナへ集団移住し安住の地を築く)に向かわせることができれば、社会主義の呪縛(じゅばく)から解き放てるのではないか。チャーチルはそのように考えたのであろう。気付かせてくれたのは上述のヴァイツマンだった。ヴァイツマンは以前から「ユダヤ社会主義」への対抗策としてシオニズムを唱えていたからだ。

 イスラエル建国後、「ユダヤ社会主義」は時と共に衰え、ネオコン思想と結び付いた右派シオニズムが今日隆盛を迎えている。現実の歴史の流れはチャーチルの目論見(もくろみ)通りに進んだわけだ。

労働党政権、約束反故に

 40年代後半、チャーチルが首相の座にいなかったことは、シオニストにとり不幸だった。

 労働党アトリー政権はチャーチルが与えた約束を次々と反故(ほご)にしてしまった。見かねたトルーマン米大統領が10万人のユダヤ難民のパレスチナ入国を認めるよう迫ったが、アトリーは馬耳東風であった。もしチャーチルが45年の総選挙で勝っていれば、英国はイスラエル建国に対しより寛大に臨み、独立戦争でのイスラエル側の戦死者もより少なかったであろう。ユダヤ民族の生き残りにとり、チャーチルの支援は掛け替えのないものだったのである。

(さとう・ただゆき)