父母に捨てられた過去 孤独な思春期どう影響
再考 オバマの世界観(9)
オバマ米大統領がケニア出身の父親を聖像化していたことは、自叙伝「私の父からの夢」からうかがえる。だが、私生活では実にひどい父親だった。
保守派評論家ディネシュ・デスーザ氏の著書「オバマのアメリカ」によると、オバマ・シニア氏にはケニアに妻子がいたにもかかわらず、それを隠して大統領の母アン氏と結婚した。ハーバード大学から奨学金を得ると、アン氏と幼い息子をハワイに残して同大に行ってしまう。そこで今度はルース・ナイドサンドさんという米国人女性と付き合い始める。
1964年、オバマ・シニア氏はナイドサンドさんを連れてケニアに帰国し、2人の子供をもうける。だが、一方で、最初の妻とも二股生活を送っていた。最終的に4人の女性との間に、大統領を含め8人の子供をつくっている。
英国から独立して間もないケニアでエリート的な立場にあったオバマ・シニア氏だが、政権批判をして社会的地位を失い、酒に溺れていく。酒に酔っては妻子を虐待した。大統領も自叙伝で、腹違いの姉オウマさんから伝え聞いた父親の荒れた生活について記述している。
オバマ・シニア氏は82年、飲酒運転で事故死し、46年の生涯を閉じた。
一方、母アン氏はハワイ大学に留学していたインドネシア人のロロ・ストロ氏と65年に再婚する。デスーザ氏の著書によると、ストロ氏もオバマ・シニア氏と同様、第三世界出身の反米主義者で、共通のイデオロギーが2人を結び付けたとみられる。
ストロ氏は66年にインドネシアに帰国。翌年、大学を卒業したアン氏は当時6歳のオバマ氏を連れて同国に移住した。オバマ氏はそこで4年間過ごすことになる。
オバマ氏は継父ストロ氏を慕った。同氏は米国の石油会社に就職し、一家の生活は豊かになるが、逆に夫婦の溝は深まっていく。夫が次第に親米化し、資本主義に染まっていくのを、アン氏は快く思わなかったのだ。オバマ氏は自叙伝で2人が激しい口論を交わす様子を記述している。
それによると、ストロ氏は会社のパーティーに一緒に来てほしいと頼むが、アン氏は頑(かたく)なに拒む。米国のビジネスマンたちが石油採掘権を獲得するために贈った賄賂を自慢し合うパーティーだった。ストロ氏はパーティーに来る人々はアン氏の同胞じゃないかと説得を試みるが、アン氏は「彼らは私の同胞じゃない」と大声で否定したという。
また、オバマ氏は自叙伝で、母親から米国の無知と傲慢(ごうまん)さを軽蔑するよう教えられたとも書いている。アン氏は極めて強い反米感情を抱き続けていたことがうかがえる。
アン氏は71年、まだ10歳のオバマ氏を1人で飛行機に乗せ、ハワイの祖父母のもとに送る。翌年、アン氏はストロ氏との間に生まれた娘マヤさんと共にハワイに戻るが、大学の修士課程を修了すると、人類学のフィールドワークで、オバマ氏をハワイに残して再びインドネシアに帰っていった。
オバマ氏は、母親が自分のことより学者としてのキャリアを優先していることに強い孤独感を感じていたようだ。高校時代の親友キース・カクガワ氏はABCテレビに「彼は難しい状況の中で思春期を過ごしていた。捨てられたと感じていた。父親は彼を捨て、母親は常にキャリアを追い求めている、そう感じていた」と証言している。
アン氏は80年にストロ氏と離婚。人類学者としてのキャリアを積み上げていくが、子宮・卵巣がんを患う。ハワイに戻った95年、52歳でこの世を去った。
父親に捨てられただけでなく、母親にも捨てられたと感じていたオバマ氏。このつらい過去は、オバマ氏の価値観にどのような影響を及ぼしたのだろうか。
(ワシントン・早川俊行)