平和ボケした日本 体裁にこだわる政治家
一年の最後の月も半ばを過ぎた。あと2週間も経(た)てば新年を迎える。まったく月日の経過は早い。毎年暮れになるとこんなことをクヨクヨ悔やむ。今年もその例に漏れそうにもない。
世は日進月歩の時代だ。その目の回るような日本で一番進歩しないのが永田町だとすれば随分皮肉な話だ。政権が何回変わっても、国政レベルの選挙を何度繰り返しても、人は変われど内容は変わらない。まさに百年河清を待つの如(ごと)しだ。
敗戦という大きな犠牲を払って手に入れた民主政治も、考えてみると形だけの変化で中身は昔ながらの日本そのままだ。
世界が平和ならこんな道草も許されるかも知れない。しかし世界はまさに弱肉強食そのものだ。日本だけが理想論を掲げても、その日本が置いていかれる恐れさえある。世界一お人好(よ)しで、世界一ノンキな日本という気がしてならない。毎年年の瀬を迎えるととにかくこんなことを考えてしまう。
政治の中心地は永田町だ。危機を迎えれば迎えるほど、永田町は緊張して国民の先頭に立たなければならない。ところがその永田町が最低だ。国民の先頭に立つどころか、最後尾をウロウロしている。目の色が変わるのは選挙の時だけだ。
いままではそれでよかったかも知れない。しかしこれからはそれでは許されない。そんなことをすれば亡国の壁にぶつかるだけだ。
日本国民は聡明だからそれが分からないはずがない。分かっていながら何もしないのは一番悪質だ。坐(ざ)して死を待つに等しい。
平和ボケと一言で片付けるのは容易だが、中身は深刻そのものだ。中国や韓国は必死だ。国を守るためには何でもする。日本は何もしない。体裁を大切にして外見を重んじる。近い将来この差の蓄積がどんな結果をもたらすか考えるだけでも恐ろしい。
国を守るに体裁や気取りは無用だ。それこそなり振り構う必要はない。ところが政党も政治家もなり振り構っている。国が滅びるか否かの瀬戸際に立っても「カッコいい」かどうかにこだわるのは滑稽だ。
日本国民は常に美意識を忘れない。日本人は死に際しても美意識を大切にした。しかし死に際する時ぐらいは本音で勝負すべきだ。とかく日本人は気取りすぎる。
(I)