天皇の「非政治性」干犯事件
人気で「臣」となる怖さ
深刻な山本太郎議員の暴走
10月31日、山本太郎(参議院議員、無所属)は、東京・赤坂御苑で開かれた秋の園遊会で、天皇陛下に対して、「反原発・脱原発」に絡む自らの政治信条を反映させたとされる手紙を手渡した。この山本の挙動は、政界や世論に波紋を投げ掛けた。
たとえば、与党では、脇雅史(自民党参院幹事長)は、「国会議員としてあるまじき行為で、相当の処分が必要だ」と語り、石井啓一(公明党政調会長)は、「皇室の政治利用になりかねない問題だ」と指摘した。また、野党でも、大畠章宏(民主党幹事長)は、「国会議員だから何をしてもいいということではない」、渡辺喜美(みんなの党代表)は、「憲法の象徴天皇制に対する大変な勘違いだ。政治利用と言われてもやむを得ない」、志位和夫(共産党委員長)は、「憲法上、天皇は政治的な権能を有さず、政治的な対応を求めることは憲法の規定にそぐわない行動だ」と語ったように、山本に対する批判の一色で染まっている。
山本の挙動は、「天皇の政治利用」という文脈で批判されている。
しかし、そもそも、昔日ならば「聖上」と呼ばれた天皇は、利用したかしないかを云々出来る存在ではない。山本の挙動は、「天皇の『非政治性』干犯」と呼ぶのが正確であろう。こうした表現であれば、山本が引き起こした事態の深刻さが伝わるはずであろう。
しかし、その一方では、山本の「直訴」という挙動を肯定的に評価する向きもある。山本の挙動を明治期の田中正造の「直訴」に擬える議論は、その典型的なものであろう。田中が足尾銅山鉱毒被害の実情を訴えた「上奏文」には、次のような一節がある。
「臣年六十一、而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ、敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。…伏テ望ムラクハ、聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ」。
この一節に関して注目すべきは、田中正造が明治天皇という「君」に仕える「臣」としての感覚を濃厚に持っていたという事実であろう。実際、田中は、自ら「草莽の微臣」と称していた。日本を含めて立憲君主国家の基本構造は、「君」、「臣」、「民」の三つの人々がいるということである。
日本の行政官庁の最高官職は、「大臣」であって「長官」ではない。総理大臣ですら、「筆頭の臣下」という意味である。そうであれば、山本における、「臣」としての作法への認識が、どうなっていたかが、何よりも問われるべきことである。民主主義体制とは、「臣」たる識見も認識も覚悟も持たない人物でさえ、当座の知名度と人気さえあれば、「選挙」という手続きを経て、「臣」の立場に連なることができるという意味では、「怖い」制度である。山本の挙動は、その「怖い」ところを暴露した。彼の政治上の主張などは、「どうでもいいこと」なのである。
故に、此度の紛糾を機に問い直すに値するのは、立憲君主制度という国制の中で、国家の「統治」に関与する「臣」の養成と選抜の有り様が、いかにあるべきかということである。戦後の日本では、民主主義という「統治システム」の意義が強調され、その機能を首尾よく働かせることを目指した議論にこそ、多大な時間と精力が費やされてきた。
しかし、日本が立憲君主国家であることの意味についての理解は、徹底されてこなかった嫌いがある。「君」に仕える折の謙虚さと「民」を導く折の責任意識とを備えた「臣」とは、どのような見識や資格の下で、登場させるべきか。こうした議論は、戦後、久しく避けられてきたけれども、再び本格的に始められてもよいものであろう。
山本は、東京電力福島第一原発事故以降の「反原発・脱原発」の気運に乗じて、参議院議員の立場を得た人物である。しかし、此度の山本の挙動は、「反原発・脱原発」言説の「説得性」を一気に落とすものである。
もし、筆者が「反原発・脱原発」を標榜する立場であれば、山本の挙動は、「反原発・脱原発」の動きを進める上でも、迷惑この上ないものと断じるであろう。「反原発・脱原発」という政策志向それ自体が「慮外者の主張」と世に印象付けられる可能性は、多分にあるからである。
もっとも、世には、「意図や動機さえ純粋であれば、手段は二の次、三の次である」と信じる人々は、少なくないかもしれない。しかし、昭和初期には、こういう類の人々の振る舞いは、世論やメディアの厳しい批判を浴びることもなく暴走した結果、政党政治の零落と「政治勢力」としての軍部の擡頭を招き、「帝国・日本」の破滅に行き着いたのである。
「帝国・日本」の破滅の過程は、他面では「臣」が機能しなくなる過程である。それが繰り返されてもよいのであろうか。(敬称略)
(さくらだ・じゅん)






