映画「ハクソー・リッジ」を見て
米軍の視点で沖縄戦描く
沖縄県民として複雑な思いに
去年の末ごろから、沖縄本島中部にある浦添城址(じょうし)に行くと、私服姿のアメリカ兵やその家族を見掛けるようになった。同じ沖縄本島でも、沖縄市やうるま市とは異なり、南部地域や那覇市・浦添市で米兵を見掛けることは珍しい。
いったい何があったのだろうと不思議に思っていたが、しばらくすると、映画「ハクソー・リッジ」を見た米兵たちが現地に見学に来ているのだということが分かった。映画の沖縄における上映は7月からであったが、アメリカではすでに昨年11月から上映されていたのだ。
ご存じの通り、「ハクソー・リッジ」はメル・ギブソンが10年ぶりにメガホンを取った映画で、舞台は1945年の沖縄戦である。衛生兵デズモンド・ドスの実話ということが話題になり、第89回アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞など6部門でノミネートされ、編集賞と録音賞の2部門を受賞した。
セブンスデー・アドベンチスト派の敬虔(けいけん)な教徒であるデズモンド・ドスは、沖縄戦前田高地(ハクソー・リッジ)での激しい攻防戦の最中、負傷して取り残された多くの仲間たちを治療するために、ひとりで戦場にとどまり75人の命を救ったという。映画はその献身的な英雄の物語である。
私も上映開始とほぼ同時に映画館に足を運んだ。
映画を観ている最中、リアルな戦闘シーンに圧倒され、デズモンド・ドスの信仰に基づく純粋な行為には胸を打たれることもあった。いかにもアメリカらしいテーマとヒーローであり、その「アメリカらしさ」に多少の羨(うらや)ましさを感じたりもした。
おそらく、私がアメリカ人であれば、この映画に純粋に感動し、デズモンド・ドスのような英雄を生み出し、それを称賛した映画を作るアメリカに誇りを感じただろう。
しかし…やはり「しかし」としか言いようがない。
ドス自身は武器を持たず誰も殺してはいないが、アメリカ兵をドスが救うための援護射撃で一度に何十人という日本兵がバタバタと死んでいくシーンは、さすがに見ていて辛い。銃口は私たち日本人に向けられているのだ。
映画を見る前まで最も興味を抱いていたのは、「アメリカ軍から見た沖縄戦」という視点であった。それが映画でどのように描かれているのだろうかと。しかし、内容は、狂気を帯びた日本兵との激しい攻防の中のデズモンド・ドスというヒーローの物語であり、実話を基にしているとはいえ、舞台は沖縄でもサイパンでも硫黄島でもよかったのである。
もちろん、そのような感想は私の勝手な「ない物ねだり」である。
防衛隊であった私の祖父はハクソー・リッジの戦闘から約2カ月後に沖縄本島南部で戦死した。私の生まれは那覇市だが、2歳の頃から浦添市(当時は浦添村)に住み、浦添で育った。ハクソー・リッジのある浦添城址は小学生の頃から何度も遠足やピクニックで遊んだ場所である。浦添城址の入り口付近には沖縄学の父である伊波普猷先生の墓があり、研究者を志したころから年に何度もお参りしている。
浦添城址が激戦地であることは高校生の頃に知り、大学生の頃は浦添市民の戦争体験の聞き取り調査の手伝いも少しさせてもらった。その時に衝撃的であったのは、前田高地周辺の住民の戦死率、特に家族全員が死んでしまった「一家全滅」の割合が異常に高いことである。
各集落の世帯数に占める一家全滅の比率は、浦添市前田で29・4%、仲間32・8%、安波茶43・3%であり、当然、全体の死亡率も高く、前田58・8%、仲間55・3%、安波茶64・1%であった。沖縄戦での住民の犠牲者は4~5人に1人と言われているが、その地域では、2人に1人以上亡くなっているのだ。
米軍や米兵にとっては、ハクソー・リッジの戦闘におけるそのような背景はとりあえず関係ない。あくまでも敵地で勇敢に戦った異質なヒーローの物語であり、それが全てであるからだ。
映画が上映されている映画館は、ハクソー・リッジと同じかそれ以上の激戦地であり日米合わせて推定5000人と言われる死傷者を出した安里52高地(シュガーローフ)の麓にある。
平日の午前中だというのにシュガーローフの麓にある映画館は地元沖縄の人でほぼ満席であった。彼らは何を期待してこの映画を見に来たのだろうか。そして何を感じて、何を考えたのだろうか。太平洋戦争を題材とした戦後の幾つかのアメリカ映画と比べてみても、この映画における日本軍や日本兵は決して「悪」として描かれてはいない。しかし、だからこそ、日本人として沖縄県民として複雑な思いで見るしかない映画である。
少なくとも言えることは、徹底的にアメリカ人の視点から描かれたヒーローの物語を、ハクソー・リッジの戦闘から72年を経た沖縄で、沖縄人(うちなーんちゅ)がお金を出してそれを見ているという現実があるということだ。
沖縄人、いや日本人は、この物語を客観的に見て考えることができるほどに成熟してきたのだろうか。それとも単純にあの戦争の意味を考えることを忘れてしまっただけなのだろうか。
(みやぎ・よしひこ)