「琉球語」復興運動の政治性

宮城 能彦沖縄大学教授 宮城 能彦

利用される言語学者たち
言語か方言かは「政治」が決定

 「琉球語」は日本語の「方言」ではなく独立した一つの「言語」である。

 沖縄において、最近またこのような主張が目立つようになってきた。その主張の根拠にしているのが国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「言語」の基準である。

 しかし、ユネスコの定義は、「話しても意味が通じなければ別の言語」であるとする、幾つかある言語学の中の一つの立場でしかない。なので、ユネスコが作成した言語リストでは「方言(dialects)」と「言語(languages)」を区別せずに全て「languages」としてリストアップされている。だからこそ、「琉球語」は日本語とは別の独立した「言語」であるということになるのである。

 しかし、少し考えただけでも分かるように、例えば、純粋な「薩摩(さつま)弁」しか話せない人と純粋な「山形弁」しか話せない人では、話しても意味が通じないはずである。薩摩に限らずたとえそれが、河内弁や広島弁にしても同じことだろう。だとするのならば、日本の中には無数の、「日本語」と同等な「言語」が存在することになる。

 さらには、例えば、ユネスコのリストでは沖縄本島北部(国頭郡)で話される言語が「国頭語」と表記されているが、同じ国頭でも私の故郷の旧羽地村の言葉と国頭村奥の言葉は多くの単語が異なり意思疎通は困難である。ほとんど「通じない」といってもよい。しかしユネスコの定義だと、それも独立した言語だということになってしまう。

 宮古島市久松出身の私の友人は、久松の言葉を「宮古語」と括(くく)られると怒ってしまう。彼によれば久松の言葉は久松であって宮古島の他の言葉とは決して同じではないというのである。

 ある言語が独立した言語なのか、別の言語なのか、方言なのかを決めるのは「政治」であって、言語学ではない、ということを私は学生時代に読んだ田中克彦の『ことばと国家』(岩波新書、1981年)から学んだ。

 書店でさりげなく手に取ったこの本には第1章『「一つのことば」とはなにか』の最初の方にいきなり「琉球語か琉球方言か」と出てくる。当時私が抱いていた疑問に見事にストレートに答えてくれる書籍だった。

 「あることばが独立の言語であるのか、それともある言語に従属し、その下位単位をなす方言であるのかという議論は、そのことばの話し手の置かれた政治状況と願望とによって決定されるのであって、決して動植物の分類のように自然科学的客観主義によって一義的に決められるわけではない」。私の目から鱗(うろこ)が何枚も落ちていくような爽快な説明であった。

 実際に、「琉球語」は独立した言語であると主張する言語学の先生たちは、その理由を、琉球は琉球王朝という独立した国であり長期間日本とは別だったからという政治的な要素で説明している。すなわち、実はこの運動は極めて「政治的」な運動なのである。

 政治的な運動が悪いということではない。政治的なのに政治的でないと主張したり、無自覚な場合こそ危険ではないかということである。政治運動ならば政治運動として堂々とやればいい。しかし、言語学者は政治活動だと意識しておらず、政治的活動を目的にしている人たちに利用されているというのが私の印象である。

 そして彼らは英国のウェールズで行われた、ウェールズ語と英語を同等とする「言語法」の制定やウェールズ語教育の義務化をモデルにして「琉球諸語」の復興に行政にも強く働き掛ける必要があると訴えている。すなわち、「琉球語」(しまくとぅば)学習の推進のため条例を制定して「学校教育で習得する機会を設けるべきだ」と主張しているのである。(沖縄タイムス+プラスニュース2016年10月9日)

 「琉球語」を島言葉(シマクトゥバ)と表現するのはごく最近のことであり、造語に近いことから疑問視する人も少なくない。それはともかく、島言葉が絶滅の危機にあるのは、禁止したからではなく、生活が変化したからである。その基本を踏まえなければ、たとえ、行政による強い働き掛けがあってもあまり効果はないだろう。実際に、戦前戦後を通じて、学校で「琉球語」を使用した生徒に「方言札」という屈辱的な札を首に掛けさせてまで強制した「方言撲滅運動」はほとんど功を奏さなかった。今度はその逆をやろうとしている。伊波普猷や太田朝敷の時代とは真逆なのである。

 言葉は文化だから、島言葉を守ろうというのは大切なことだと思うが、それを「政治」(行政・教育)でやっても効果がないことは目に見えている。学校教育で義務化しても、その言葉の背景や土台となる生活が既に変化しているのだから、試験が終わったら忘れてしまうだろう。彼らは彼らが批判するかつての「権力者」と同じことをやろうとしているのである。

 最も問わなければならないのは、「琉球語」復興運動の政治性である。故郷の言葉や文化を大切にしたいという思いは沖縄に限ったことではない。しかし、それが政治運動となる時、それは何を目的としたものかをしっかりと見ていかなければならない。

(みやぎ・よしひこ)