首里城焼失と復元の気概
首里城の円覚寺近くの木立の暗い茂みには枯葉によく似たコノハチョウがいた。龍潭(りゅうたん)の池のほとりには、ときたま幻の白い蝶(ちょう)が出現するという噂(うわさ)を聞いて、当時少年だった私は見たこともないその蝶を求めて首里城周辺に通い始めた。
ある日、突然一頭の純白な蝶が歓会門の横からひらひら舞い降りてきた。よく見ると、ああなんと素敵な蝶か。白い翅(はね)に赤い日の丸の紋がくっきり見える。唖然(あぜん)として捕獲するのも忘れているうちに、蝶はあっという間に紺碧(こんぺき)の空の中へ消えてしまった。
蝶が消えた所は首里城正殿の上空だった気がする。私は御庭(うなー)の中央に佇(たたず)んで正殿をぼんやり眺めていた。後日、その古色蒼然(そうぜん)とした正殿は何かしら風格があり、存在感があったことが思い出された。
国直轄事業として推進
敗戦後の1950年、首里城跡地には琉球大学のキャンパスができたが、移転先が容易に決まらずに79年になって大学はようやく西原町に移転した。その後、首里城復元期成会が発足したが、財政困難で設立事業は難航した。復元構想は目途(めど)が立たずに途方に暮れた状態だった。
そのうち思いがけない動きが起きた。復元期成会の中から、復元原動力ともなる一つのスローガンが飛び出した。「首里城の復元なくして沖縄の戦後は終わらない」。すると、初代沖縄開発庁長官の山中貞則と、第5代長官の植木光教が目覚めたように奔走して、政府予算計上が出るに至った。名目は「沖縄県の復帰20周年記念事業」として「国立公園整備」であり、文化財建造物である首里城正殿の復元に本格的に着手することになった。
かつて首里城は、王国を統治する行政機関の「首里王府」の本部でもあり、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上の拠点でもあった。
首里城では芸能・音楽が盛んに演じられ、芸術・工芸の文化芸術の披露の場でもあった。また25年に首里城は「沖縄神社拝殿」として国宝に指定されたが、戦火で国宝は消滅している。一方、県民の心のシンボルとしての首里城復元は熱い思いが集中している。
そんな状況の中で、左翼陣営から復元事業に極力反対する批判の声が殺到した。その主張は、王族の支配と奢侈(しゃし)と搾取の歴史を持つ首里城復元など全く無意味だというのだ。
しかし、首里城復元は国の直轄事業として推し進められた。この事業には歴史家・高良倉吉らが資料のリサーチなどの手腕を発揮し、国建スタッフらの知と和と力量で成果を上げた。また、鎌倉芳太郎著の『沖縄文化の遺宝』から古文書のノート類、口絵、儀式絵図、写真などによって首里城の制作設計に大きな効果を上げた。その結果、92年に首里城正殿を中心に建築工事は竣工(しゅんこう)するに至ったのである。
あろうことか、令和元年10月31日未明、突然、首里城が大火事に襲われた。めらめらと赤く燃える正殿が崩れ落ちていく様子がテレビで生中継され、多くの人たちが眺めて溜息(ためいき)をついていた。
「ああ沖縄の心が焼かれている!」
「沖縄の象徴が焼け落ちている!」
涙を流す人も合掌する人も映っていた。
玉城デニー知事はいち早く上京して菅義偉官房長官に資金援助を要請した。菅長官は即座に「首里城復元に向けて責任をもって取り組む」と復元を約束した。出火原因は不明のままだが、玉城知事は「2026年までに必ず実現させる」と発言した。内外から首里城復元への援助資金が続々と集まっていた。
先だって烈(はげ)しく復元に反対していた御仁に尋ねてみた。「あなたたち、すっかりおとなしくなったようですが」。すると、彼は「うむ、もうそんな時期ではないだろう。それよりか、琉球のグスク(城)は所詮(しょせん)、石造文化だよね。建造物がなくても見応えあるじゃないか」という返答だった。
そういえば、「浦添城跡」「中城城跡」「座喜味城跡」「勝連城跡」「今帰仁城跡」など、どのグスクも建造物はないけれど、確固たる存在感がある。
全部揃ってこそ首里城
それはその通りだが、しかし、やっぱり首里城は正殿、南殿、北殿その他すべて揃(そろ)ったものが欲しいし、それが道筋だと思う。
(ほし・まさひこ)






