島々を生んだ国土生み神話

建国記念の日 特集

民俗宗教史家 菅田正昭氏に聞く

 きょうは建国記念の日。日本の神話は国土(クニ)生みから始まります。それは島国日本の性格を暗示した伝承でもありました。この伝承にちなんで、島国としての文化的宗教的な特質がどのようなものか、島の研究者であり、宗教学・民俗学の研究者でもある菅田正昭氏に聞きました。(聞き手=増子耕一)

山幸彦の系統が天皇家に/海の生命力と霊性を受け取る
「まれびと」は自分たちの祖先/舟に乗って天界に戻る

ご著書の『青ヶ島の神々』の中で、古事記の記述について、「国土生み神話」は本当は「島生み神話」と言うべきではないか、という説を提示していましたが、古事記の記述を、どのように解釈しているのですか?

菅田正昭

 すがた・まさあき 1945年東京生まれ。学習院大学卒業。宗教学・民俗学、離島問題の研究家。青ヶ島には71年~74年、90年~93年在住。著書『古神道は甦る』『日本の島事典』『青ヶ島の神々』ほか。

 日本人は島に住んでいます。国土生み神話と言いながら、実際、神話の舞台は海です。日本の呼称はいろいろありますが、一番古いのはオホヤシマノクニ(大八島国)です。古事記ではイザナギとイザナミは最初に八つの島を生み、続けて6島を生んでいます。最初に8島を生んだので、オホヤシマノクニというようになりました。

 ですから日本人は国よりも島の概念を大事にしてきたと思います。国生み神話のクニは国家を生んだという意味ではなく、クガ(陸地)としての島を生んだわけです。

 私が2度住んだ青ヶ島などの伊豆諸島では、クニという場合、本土(国地)の意味であり、それに対して島地という概念がありました。記紀神話の場合、イザナギ・イザナミ2神が直接生んだのがシマで、それ以外がクニということになります。

 すなわち、イザナギ・イザナミが生んだ島々が大八島国です。その後に神々を生んでいきます。ですから島々と神々は兄弟姉妹になります。日本ではイザナギ・イザナミが生んだ神々の子孫がわれわれなのです。日本の島々も神々もわれわれもイザナギ・イザナミの子供たちなのです。

この島生みの物語は、東南アジアに分布する「洪水説話」に似た点があると指摘する人もいます。

 八丈島には丹那婆(たんなば)伝説というのがあります。大津波がやってきて、女性がたった一人助かるのですが、そのとき妊娠していて男の子を産みます。そして、その子と母子交合で子孫が増えていく。似たような伝承は確かに日本や東南アジア、太平洋の島嶼(とうしょ)国家には点在しています。

 ですが洪水伝説はイザナギ・イザナミの国生み神話とは結び付きません。イザナギ・イザナミは高天原から天浮橋に立ち、矛で混沌(こんとん)をかき混ぜ、滴り落ちたものが凝り固まってオノコロジマができる。その島に下りて島生みが始まります。それを洪水と捉えるかは微妙な問題ですが、そこには海洋信仰があります。その時点ではまだアマテラスもスサノヲも生まれていないことが重要です。

さらには神から万物が生まれてくるという記述があります。

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船上から見た青ヶ島=青ヶ島村役場発行のポストカード

 2神の子として最後に生まれてきたのがカグツチです。火の神だったためにイザナミは生むときにやけどをして、死んでしまう。イザナギは怒ってカグツチを斬ってしまう。そこからまたまた神々が生まれてくる。

 生長の家の谷口雅春師はカグツチの神から生じた神々のことを核分裂に譬(たと)えていましたが、そこで生まれた神々は天孫降臨のときに重要な働きをするようになります。

海と陸との関係で言うと、山幸彦と海幸彦の物語があります。これは文化史的には何を意味した物語なのでしょうか?

 山幸彦の系統は天皇家につながっていきます。たぶん皇室の先祖は山の方の民で狩猟系です。山も海も猟師(漁師)なのですが、山の民も海の力をもらわないとうまくゆかない。それが分かるのが仁徳天皇の即位です。応神天皇の後、本来は皇太子の宇治皇子が継ぐべきでしたが、後の仁徳は弟に譲ろうとし、弟の方は遠慮したため3年の空位期間があった。

 アマ(海人)=漁師が日嗣(ひつぎ)の皇子の所に料理を献上すると、弟は兄に遠慮して受けない。お互いが恐れ多いといって譲り合っているうちに腐ってしまう。これが何を意味するかというと、海の食べ物を食べるということは海の生命力=霊性を受け取ることで、それをもって天皇になるということなのです。

 古代では宮中料理の要の大膳職は海人族が担っていました。その海の霊性の伝統は今に続いてきて、進物のときの熨斗(のし)袋がそうです。熨斗は文字どおり、アワビの干物でした。今はマークを書いたり、熨斗の形状が平仮名の「のし」と続けて書いたのと似ているので、「のし」と書いたりする。

島の特性として、外から来る人を大切にするという風習がありました。

 折口信夫は島の外から来る人を「まれびと」と言いました。まろうど、客人です。遠くから来る人は自分たちと違う。言葉も着物も違う。それは神なのです。神は死んだ自分たちの祖先で、マレビトとして形を変えてやって来たので歓迎する。

 伊豆諸島では流人を大切にした。新人好みといって新しく来た人を大切にした。沖縄でも海の彼方にニライカナイ(本土の常世の国)があると考えてきた。そこは年がら年中、豊穣(ほうじょう)な地で、そこから時を定めてやって来るのがマレビトです。日本古代には外部から来る人を排除しない思想があったのだろうと思います。

確かに日本人のルーツはさまざまで、南の島々からも、西の大陸からも、北方からも来ています。

  神様も名前を分析すると南方系、北方系、大陸系と判断できます。古い神様になると縄文時代からで、弥生期、古墳期となる。

正月の飾り物に宝船があります。

 常世(とこよ)信仰に仏教の七福神信仰がくっついて宝船になりました。海の彼方からはいろいろなものが島には漂着します。うつぼ舟信仰では、丸木舟に神が乗っていたわけですが、何も乗っていなかったり、小さな女の子が乗っていたり…。死者が乗っていて息を吹き返したりする。

 大隅正八幡信仰でも、震旦(しんたん)(中国)の大日留女(おおひるめ)が7歳で日光に感応して妊娠して王子が誕生すると、母子共に空船(うつぼぶね)に乗せられて流されたという伝承があります。漂着した場所が大隅の八幡崎で、王子は大隅国にとどまって八幡神として祭られ、大日留女は筑前国に飛び移って、香椎(かしい)聖母大菩薩となっています。

 いろんな形態があります。やってきたアメノヒボコとツヌガアラシトとは同じ神と見る信仰、伝承があり、持ってきた宝物がご神体にもなっている。兵庫県豊岡市の出石神社です。そういう意味で流れ着くものは舟も人も物もあり、強いて言えば文化です。

 昔は漂着物は良いものとして扱ってきました。材木などを見つけると大喜びで、見つけた人が自分のシルシを付けた。運んできて建材になるし、燃料にも使える。今、流れ着くのはゴミです。対馬ではハングルの入ったゴミが多く、韓国からボランティアが来て一緒に掃除をしています。

岡倉天心は日本をアジアの博物館だと言いました。アジアの文物が歴史を通して日本にやって来たからです。それを大事に保管してきた。送り出した国ではそれが消滅してしまう。

 秦氏は秦の始皇帝の子孫だとされ、絹織物の技術を持ってやって来た。シルクロードから韓半島を通ってやって来る間にいろいろなものが交ざり合い、ユダヤ系はじめいろんな系統の人々がやって来た。平安時代には黒人が来たという痕跡もあります。

 韓国や中国では文化財の破壊が激しかった。本国に無くなったものも、日本では残っている。直して変わっていっても、一部は残っている。

島にとっては海とは?

 日本語では海もアマ、天もアマ、雨もアマです。海から来たものも、天から来たものも、同じものだという思想がある。貴人が亡くなってお棺の中に入れますが、遺体を入れる時のことを「お舟入り」と言います。舟と棺は同じものでした。お棺も舟なのです。舟に乗って元の国へ戻る。古代の古墳の中には星が描かれていました。舟は宇宙船で、星の海を通って天界に戻っていく。

 伊豆諸島の青ヶ島に住んでいたとき、30日以上、船が来ないことが4回もありました。船が遠くに見え、近づいて来るのですが、60キロも先です。それは鳥が飛んで、近づいて来るようにも見える。天駆ける鳥、天駆ける舟です。

 パプアニューギニアの族長の葬儀を映像で見たことがあります。棺は自分がかつて使っていたカヌーです。そこに彩色が施され、目が描かれて、遺体が乗せられて山のてっぺんに運ばれて行く。風葬ですが、魂が鳥になって羽ばたいて行くのです。

 イザナギとイザナミの国生みの時、最初にヒルコとアワシマが生まれますが、ヒルコは葦舟(あしぶね)に乗せられて流され西宮たどり着く。これが日本書紀(一書)では「天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)」で、古事記の鳥之石楠船(とりのいわくすふね)神と同神とされています。別名「天鳥船」です。

 ヒルコは蛭児と書いてあり、骨なしの脚立たずと言われますが、ヒルコはオオヒルメと同じく、太陽の子の意味だと思います。神々の長子が流される、という神話は太平洋には多いようです。海は天でもあります。太陽の子として流されたのだから、太陽神となって回っていると考えられる。日本ではそう考えられていませんが、でも、そこからヒルコの名前が来ているのだろうと思います。

青ヶ島での体験は貴重なものでしたね。

  はっきりしませんが、人が住み始めたのは15世紀ごろです。天明年間の大噴火で八丈島へ3艘(そう)の船で200人が全島避難し、十数年は無人島になったものの、50年後の天保年間に再開発を終了する。歴史は短いのですが、精神性はそうじゃない。明治維新がありましたが、遠すぎて国の政策が届かないのです。昭和40年代まではそうでした。後で届いても遅いのです。ですから神仏習合も残りました。

 東京都の役人が来ても港で指導するだけで、陸(おか)にある役所には上がって来ない。上がってしまったら船が出てしまうからです。閉じ込められてしまう。そんな所なのです。

今日は、ありがとうございました。