前近代の教育が教えること
正しい姿勢と素読重視
「分け隔て」をせず共に学ぶ
近代国家を目指して日本が邁進(まいしん)していた明治の終わり頃、期せずして、内村鑑三と新渡戸稲造は教育に関して同じ警鐘を発している。
「近頃、毎日思わせらるる事は、今日の日本に教育らしい教育のないことである。殊に大学の教育と来たならば、それは教育ではない。人格の破壊である。日本に於いては教育は専門家の製造である。人を作ると云う事の如きは、日本の教育者は之を念頭に置かず、又為すこともできない。」(内村)
「今日の教育たるや、吾人をして器械たらしめ、吾人をして厳正なる品性、正義を愛するの念を奪いぬ。一言にして云わば、我祖先が以て教育の最高目標となしたる、品性てふものを、吾人より奪い去りたるものなり。」(新渡戸)
この内村と新渡戸の警鐘から100年が過ぎたが、我々の眼前には、近代教育がもたらした表面的な繁栄幻想と茫漠(ぼうばく)とした精神的不毛が広がっている。温故知新ではないが、新渡戸の語るように、我が祖先が以て教育の最高目標となしてきたことに思いを致し、じっくりと吟味することが、これからの新教育には必要ではないだろうか。本稿では、江戸期、明治初期という前近代の教育に焦点を当て、そこで何が大切にされていたのかを三つの視点から考えてみたい。
一つは、姿勢や立腰の重視である。実感として最近の子ども達を見て思うことは、異常なまでに姿勢が悪くなっていることである。食事しかり、机に向かう姿しかり、猫背の歩き方しかりである。その延長としての大人も同様である。これに反して、明治6年(1873年)生まれの杉本鉞子(えつこ)は、その著『武士の娘』の中で、6歳の時の自身の論語の学びを次のように回顧している。
― お稽古の二時間のあいだ、お師匠さまは手と唇を動かす外は、身動き一つなさいませんでした。私もまた、畳の上に正しく座ったまま、微動だも許されなかったものでございます。唯一度、私が体を動かしたことがありました。どうしたわけでしたか、落ち着かなかったものですから、ほんの少し体を傾けて、曲げていた膝を一寸(ちょっと)緩めたのです。すると、お師匠さまはお顔にかすかな驚きの表情が浮かび、やがて静かに本を閉じ、厳しい態度ながら、やさしく「お嬢さま、そんな気持ちで勉強はできません。お部屋に引き取って、お考えになられた方がよいかと存じます。」とおっしゃいました。―
どれほど姿勢が重要視されていたかを垣間見せてくれる。このように、正しい姿勢や立腰がその人間の心身を整え、呼吸を整え、持続力を増し加えるのだということを前近代教育は我々に教えている。書を学ぶことを書道という型に高め、茶を嗜(たしな)むことを茶道という型に高めてきた日本の姿勢文化、型の文化が霧散の危機にあるのではないだろうか。
二つ目は、声に出す学びの重視である。藩校でも私塾でも寺子屋でも、当時一般的に行われていた学びは素読である。師範と生徒が向き合って対座し、師範が読み上げた文章に続いて「子 曰(のたまわ)く~」などと論語を読み上げていく学習方法である。意味をじっくり考えて頭で読む「精読」を強調する近代教育とは違って、まずは声に出して身体に言葉を浸透させていくのだ。しかも、素読は3歳頃から始まり青年期まで連綿と続くものであり、まさに教育の本流なのである。この点に日本人の教養と知的レベルの源泉を見いだした国語学者の齋藤孝は、次のように喝破する。「語彙(ごい)とは教養そのものである。しかもその教養は、会話の表現力や説明力に直結し、一瞬にして自分の知的レベルを映し出す。それはさておき、なぜ日本人の語彙力は低下してしまったのでしょうか。その原因は、素読文化の減衰にあると私は考えています。」
考えてみると、声に出す学びの伝統は、平安時代に物語文学を人が人へ語り聞かせるという形で確立し、素読教育がその精神を強靭にし、日本人の豊かな精神文化として受け継がれてきた。しかしながら、近代教育は精読とか黙読という知的操作に矮小(わいしょう)化し、声に出して身体に深く言葉を浸透させることから遠ざかってしまったのではないだろうか。
三つ目は、分け隔てない教育の重視である。近代と前近代を隔てる価値観の相違は、「分ける」ことに価値を置くか置かないかの違いにある。例えば、江戸期の社会では、子どもが生まれると、実の親以外にも多くの「仮親」が関わるような子育て風習が見られる。取り上げ親、行き会い親、拾い親、乳付け親、名付け親、回し親、元服親、仲人親などである。つまり、前近代では地域の村なり郷全体が一つの疑似的な家族という意識があり、「分け隔て」をせずに、さまざまな人間が我がこととして子どもに関わっていた社会なのである。
教育も同様であり、寺子屋の絵などを見ると、3歳から10歳くらいまでの子ども達が大きな部屋に混在し、複数の教え手が相手に合わせた内容を教えている。私塾も同じである。延べ4800人の塾生を輩出した広瀬淡窓の咸宜園は、学ぶ者の年齢や性別や身分を問わないばかりか、全寮制ということもあり、師と子弟が生活を共にした学びを行っている。淡窓が残した漢詩の中に「君汲川流 我拾薪」(君は川流を汲(く)め、我は薪を拾わん)とあるが、寝食を共にしながら学ぶ喜びが泉のように伝わってくる。
さて、内村と新渡戸が発した近代教育への警鐘は、明治期まで幾千万の先人が紡いできた豊かな日本人の教育遺産に目を向けよ、前近代の教育が教えてくれることに心をとめよという預言でもあった気がするのである。
(かとう・たかし)











