国家の危機伝えぬマスコミ

ペマ・ギャルポ桐蔭横浜大学法学部教授 ペマ・ギャルポ

中国の暴走は三面記事
覇権狙う国家の体質報道を

 8月に入り、日本中の関心事はオリンピックとなった。皆が寝る間も惜しんでテレビの前に陣取り、日本人としての自覚に目覚め、国旗が掲揚されるたびに歓喜に酔う姿は、世界のどこの国の人々とも同じく、愛国者である。この時だけは国旗も国を表す象徴の一つとして自然に受け入れているようである。これらの場面を見る限りでは日本も普通の国と言える。

 だが皆がテレビの前で興奮している間にも中国は、数百隻の公船、漁船で日本の領海を侵し、偵察と見せ掛けて領空にも挑発的に侵入していることに関しては、全く無関心であることに大きな矛盾を感じざるを得ない。もっと驚くのは日本国内の大新聞でさえも、オリンピックの記事とわずかながら地方自治のトップの選挙の成果を報じて、中国の暴走ぶりに対しては三面記事にしているにすぎない。この関心度の置き方に関しての視点がどこかずれているような気がしてならない。

 オリンピックは確かに大事であることは間違いない。世界中の人々が自国の名誉を賭けて健全に競い合う場が4年に1回しか無いことも分かる。だが私たちが日本人として素直な気持ちで日本のために応援している、「国」そのものが危機にさらされ、他国に侵略されては元も子もないのではないだろうか。

 選手たちが祖国の名誉と自分自身の達成感のために躍動しているのと同様、安倍首相をはじめとする日本国政府が国際社会において、日本の国家存亡と国民の幸せのために奮闘し、激動的に変化している国際情勢に応じて憲法を中心とする法治国家としての法整備をしようとする姿勢に対しては、一方的に戦争法などと決め付け、批判しているマスコミを中心とした言論人たちと、無関心のまま誘導されている国民の言動には大きな矛盾があるように思う。

 選手一人ひとりに関しては、生い立ちや細かい情報までメディアが収集し国民に伝え、国民全体が評論家並みの知識を得ている一方、中国の漁民と称する人々は訓練を受け武装していることについては言及する記事も無ければ、中国自国内で十分に移動の自由が許されていない現状において、政府による計画と許可なしにあのような行動を勝手にできないことを伝える記事も無い。日本のメディアが本当に真実の追究に精を出し、平和を望んでいればこのような中国の野望と覇権を狙う国家の体質について言及し、それを日本国民に正確に伝えることこそ戦争を阻止し、平和を構築するために大切なメディアの役割ではないだろうか。

 日本のメディアは今年も各社が熱心に反戦という立場で南京大虐殺と称するものがあったということを検証するため、また日本の先輩たちがアジア各地で残虐な行為を行ったということを立証するために資金と人材を注ぎ、さまざまな番組を編成し報道している。平和を願うことは人類共通の願望であり、平和に暮らすこともまた同様に誰もが望んでいることである。しかし先の大戦を含め、人類の歴史から戦争は消えていない。日本で反戦を訴えている人々は戦争の結果及び現象的なことのみ取り上げ、そしてあたかも戦争は一方的に日本が起こしたかの印象を与えていると同時に、自分たちもそう信じているようである。

 しかし戦争には当然原因がある。日本人の中には日本が石油などの資源を求めてアジア諸国を侵略したと言うが、産業革命以来私たちが生きていくために石炭から石油へとエネルギーが移り変わり、私たちがより便利でより豊かな生活を求めるためにはこれらのエネルギーが不可欠になっただけではなく、私たち自身が強欲のまま恩恵を受け、生活の向上に対して注意する人も、自制や自粛する人も存在しなかったのではないか。

 今現在も反原発を唱える人々は実際、グローバライゼーションの名の下で進められている暴力的な資本主義の暴走を引き止めようとしているだろうか。自分自身の生活でどのような努力をしているのだろうか。私がここでこのような愚見を述べるのは決して戦争をあおるためでもなければ、過去の特定の戦争を正当化するためでも無い。ただ現象についてのみ騒ぎ立て、原因と真実を見詰めようとしない日本の平和主義者たちの持っている非現実的な態度に大きな疑問を感じるからである。

 南京大虐殺の検証に懸命になっている人々は、人道主義的な立場で自分たちは正義を探求していると言うが、今現在中国をはじめ、世界各地で進行中の非人道的に虐殺されたり、言論や思想の自由を奪われ苦しんでいる人々に対して無関心で見て見ぬふりをしているのではないだろうか。特定の国が戦争してはならない、特定の人々の命が他の人々の命よりも価値が無いとでも言うのだろうか。私は戦争の本質と人々の命は平等に扱われるべきであり、しかも起きたことよりもこれから起こさないため、現状に覚醒し最善の努力をすることこそ普遍的な価値として人類が共有すべきものではないかと考える。