物で解決しない子供の貧困

加藤 隆名寄市立大学教授 加藤 隆

個人主義で未熟な親に

質素な幸せ見た戦前外国人

 「こどもの日」の5月5日が過ぎたが、明るい響きとは裏腹に、子どもの貧困が日本社会に広がっている。世間では株価2万円、春闘ベア最高水準の新聞見出しが躍る一方で、人知れず貧困に直面している子どもが増えている姿は尋常ではない。なぜ子どもの貧困が増加しているのだろうか。その事実経過と、問題の底流にあるものを考えてみたい。

 厚生労働省が昨年まとめた調査(2012年度の実績値)によると、18歳未満の子どもがいる世帯の相対的貧困率は16・3%であり、実に子どもの6人に1人が貧困の結果になっている。さらに、根が深いのは、年々この状況が悪化していることであり、1985年では10%台だった貧困率が毎年過去最高値を更新し、今回ついに16%を超えた。

 特に、ひとり親家庭に区切って捉えるならば、子どもの貧困率は55%と突出しており、平均年収200万円以下で暮らす母子家庭を中心に子どもの貧困が影のように広がっていることがわかる。世界的に見ても、日本の子どもの貧困率はOECD(経済協力開発機構)加盟国の平均値をかなり超えている実態にある。

 ところで、このような子どもの貧困の解決策について、マスコミや識者の主張を眺めると、その多くは政府の無策を批判し、低収入の非正規雇用を解消すべく、政府は雇用の問題に直ちに取り組む必要があるとか、児童扶養手当の拡充、返済義務のない給付型奨学金の早期導入などを訴えている。もちろん、これらの施策によって短期的には家計が助かる家庭も多いだろうし、子どもが貧困状態から抜け出し、希望を持って歩み出すことも幾分は期待できる。その意味では賛成である。しかし、どうしても疑問が残るのである。

 子どもの貧困がのっぴきならない状態になっているのだから、政府は手当だの支援金だのをたくさん本人に渡しなさいという手法でいいのだろうか。それは、例えるならば、膿(うみ)が出ているので絆創膏(ばんそうこう)を貼って見えないようにするのと似ている。本当に大切なことは、真の原因を突き止めて治療することでなければならない。以下に、二つの視点からまとめる。

 一つ目は、戦後の日本社会に半ば強引に導入されたアメリカ型の個人的自由や市場経済の価値、自己責任、人権主義などの価値の拡散が挙げられる。本来、個人とは何か、或いは、人権とは何かを問うことは、深い尊厳性や思想性が求められると思うのだが、残念ながら皮相的な理解に終始した戦後70年ではなかっただろうか。特に、バブル経済以降の倫理観や道徳観の箍(たが)が外れた個人的自由は、別の言い方をすれば「何でもあり個人主義」に陥っていると思えてならない。

 すべての振舞いや行動は、個人の「好み」と「選択」に委ねられ、そのことに善悪は問わない社会になっている。しかして、女子高生の「援助交際」なるものが個人の自由だと主張され、小学校や幼稚園で学級崩壊が起こり、ポルノが氾濫し、外国では例のないほどの無意味なバラエティーがテレビで垂れ流されている。それが嫌ならば見なければいい、しなければいいという論法なのである。

 子どもの貧困に重ねて言うならば、その子ども達の中には、幼児期に父親から執拗(しつよう)な暴力を受けていたり、突然親がいなくなったり、子どもの養育をしなくなった事例が目立つ。まさに、個人的自由と自己責任の未成熟の姿を見るのである。個人的自由で結婚し、状況が悪くなれば相手の責任だとして自己責任を回避し、個人的自由で再び家を出てしまう。戦後の日本人が手にした「何でもあり個人主義」は伝家の宝刀なのだ。

 二つ目は、厚生労働省調査やOECD調査の指標基準をひとまず横において、明治から大正期に日本にやって来て、つぶさに記録文を残した欧米人が捉えた日本の貧困像を紹介したい。東京大学のお雇い教授を務めたアメリカの動物学者エドワード・モースである。彼は日本とアメリカの貧困層を比べて、次のように記している。

 「実際に、日本の貧困層というのは、アメリカの貧困層が有するあの救いようのない野卑な風俗習慣を持たない。日本にも雨露を凌ぐだけという家々が立ち並んでいるが、そのような小屋まがいの家に居住している人々は根っから貧乏らしいのだが、活気もあって結構楽しく暮らしているみたいである」

 イギリス人のアーネスト・サトウも外交官兼通訳として『日本旅行記』を明治中期に出版しているが、「貧困だが、一様に幸せそうだ」とまとめている。或いは、大正末期から昭和の初めにかけて、駐日フランス大使を務めたポール・クローデル(詩人)も、「彼らは貧しい。しかし高貴である」と書き残している。

 さて、我々の先達は、経済的価値に収斂(しゅうれん)されない「高い価値」に生きていたのではないだろうか。それは、物質的幸福よりも人々の精神的つながりや質素な生活がもたらす安らぎを重んじる価値観であり、生活の中にいろいろな形で美を持ち込む美意識、或いは、個人的利益追求より他者への配慮を尊ぶ気風だったのではないだろうか。グローバルとか世界基準などの美辞麗句に振り回されることなく、我々のDNAが脈々と受け継いできた価値に心致すことが、子どもの貧困解決の着実な一歩になるのではないだろうか。

(かとう・たかし)